name gurubhye
地と道へ赴くことを究竟なさり
その次第を教化なされた釈迦王に
敬礼し共劫の人々を守るため
地道の規定を簡単に著さん
さて、世間・出世間のあらゆる功徳の基盤であり、拠り所たる地と道の規定を解説する前に、まず三士の道の規定を簡単に述べよう。
三士道とは何か
下士道とは
自己の利益を中心とし、そのために後生の輪廻における増上生のみを追求しようとしている、ということで特定可能な思、これが殊勝なる下士道の定義である。定義基体は、下士の心相続における死の無常を解している知や十不善を断じようとする戒等がある。それに依ることで、その思を心相続にもつ者は増上生位へと向かっていくことから下士道と表現される。
中士道とは
輪廻の円満を顧みることもなく、自分だけのために解脱を追求することで特定可能な思、これが中士道の定義である。定義基体は、中士の心相続における無常等十六行相を証す知である。それに依ることで、この思を心相続にもつ者は解脱位へと向かっていくことから中士道と表現される。
上士道とは
大悲のなすがままとなり、他の有情を仏位を得させることのために一切相智を追求することで特定可能な思、これが上士道の定義である。定義基体は、上士の心相続にある大悲心・増上意楽等がある。それらに依ることで、その思を心相続にもつ人は、無上菩提へと向っていくことから上士道と表現される。
三士のすべての所修であり、かつ、中士道を自相続に生起させるために、まずは自己の意を浄化したいという思、これが下士・中士の共道の定義である。定義基体は、死の無常、悪趣苦を証す知等である。上士・中士の共通の所修であり、上士道を自相続に生ぜるために、まずは意識を浄化したいという思、これが中士・上士の共道の定義である。定義基体は、無常等十六行相を証す知である。
こうした三士道次第が心相続へ生起する次第はこうである。有暇具足は得難い。これは極めて重要な意味をもつものであるが、ここには長くは留まることはできないし、失われてしまうものである。このように思うことで、いまからはこの現世において徘徊することを背を向けよう、後生にこそ意味を求めよう、この思いが作りものではない経験となる時に、殊勝なる下士道が相続に生起するのである。その次に、輪廻の円満はすべて火が燃え盛る大火坑の如きであり、ここから何としても脱して解脱せんと思い、その思いが作為的でない経験となる時、中士道は相続に生起するといわれている。その次に、もしも、たとえ自分だけが輪廻から解放された解脱を得ることとなっても、それは小さなひとつの欠点が解消されただけにすぎないのであり、その功徳もほんの一部を得たのに過ぎない、それは自利の円満でもないし他を利することも少ないものであり、自利だけを求めるのは畜生にも等しいことである、と理解して、他の有情を常楽へと導こうとして、そのために一切相智位を求めることに専念し、この思いが作為的でない経験となった時、上士道は相続に生起するのである。