Last Updated: 2018.12.04

F1 自立派の教義の説明

クンケン・ジクメワンポ著『学説規定摩尼宝蔓』試訳

F1には、G1定義・G2語源解釈・G3分類・G4学説の主張内容の四つが有る。

G1 定義

それ自身の特質によって成立しているものを言説において承認する無自性論者、これが自立派の定義である。

G2 語源解釈

何故「中観自立派」と呼ばれるのかと言えば、〔論証因の〕三相それ自身の側から成立している正証因に基づいて真実そのものを否定するので、そのように呼ばれるからである。

G3 分類

これを分類すれば、瑜伽行中観自立派・経量行中観自立派の二つがある。外部対象を承認せず、自己認証を承認する中観派、これが瑜伽行中観自立派の定義である。定義基体は、たとえば阿闍梨シャーンタラクシタである。自己認証を承認せず、外部対象がそれ自身の定義によって成立していると承認する中観派、これが経量行中観派の定義である。定義基体は、たとえば阿闍梨バーヴィヴェーカである。

語義解釈も有る。基体の規定を唯識派と同様に承認するので「瑜伽行中観派」と言われ、経量部と同様、極微の積集たる外部対象を承認するので「経量行中観派」と呼ばれるからである。

瑜伽行中観派にも更に、形象真実派に相応する中観派・形象虚偽派に相応する中観派という二つがある。前者は例えばシャーンタラクシタ・カマラシーラ・アールヤヴィムクティセーナなどである。後者は、たとえば阿闍梨ハリバドラ・ジターリ・カンバラである。ジターリは形象虚偽派有垢論に相応し、カンバラは形象虚偽派無垢論に相応していると言われている。

G4 学説の主張内容

G4学説の主張内容には、H1瑜伽行中観派の教義の説明・H2経量行中観派の教義の説明の二つがある。

H1瑜伽行中観派の教義の説明

H1には、I1基体の主張内容・I2道の主張内容・I3果の主張内容との三つがある。

I1 基体の主張内容

I1基体の主張内容についても、J1客体・J2主体との二つがある。

J1 客体

基体成立ならばそれ自身の特質によって成立している、と考えている。如何なる法でも仮説対象を探せば得られると主張するからである。それ故、本性によって成立しているもの・それ自身の特質によって成立しているもの・それ自身の実相の側から成立しているもの・それ自身の側から成立しているもの、というこれらは同義であると主張する。認識対象を分類すれば、世俗真実・勝義真実の二つがある。それ自身を現量において証得する現量の量によって、それ自身が二顕現を伴わない形式で証得されるもの、これが勝義真実の定義である。それ自身を現量において証得する現量の量により、それ自身が二顕現を伴った形式で証得されるもの、これが世俗真実の定義である。例えば壷真実空は前者の定義基体であり、例えば壺は後者の定義基体である。勝義真実を詳しく分類すれば十六空性が有るが、纏めると四空性となる。世俗真実を分類すれば、正世俗・誤世俗の二つがある。正世俗とはたとえば水である。誤世俗とは、たとえば陽炎水である。この教義は、認識であれば正世俗であると主張する。

J2 主体

意識を人の定義基体とし、阿頼耶識と染汚意を承認せず、六識身を主張することについて両自立派とも同じである。知には量知・非量知の二つが有り、量には、現量・比量の二つが有る。現量には感官現量・意現量・自己認証現量・瑜伽行現量の四つが有り、後者の二現量であれば非錯乱認識である、と承認する。外部対象として成立しているものを承認していないので、青と青を捉える現量の二つが同一実体である、と主張している。

I2 道の主張内容

I2道の規定についてもにも三つある。

J1 道の所縁

人が常住・単一・自律的な我に関して空であること、これが粗大人無我であり、人が独立自存の実体として有ることに関して空であること、これが微細人無我であり、色は色を捉える量と別異実体であることに関して空であること、これが粗大法無我であり、一切法が真実成立に関して空であること、これが微細法無我である、と考えている。

J2 道の所断

道の所断について、人我執は煩悩障であり、法我執は所知障であると主張し、所知障には、把握対象と把握主体が別異実体であると捉える粗大所知障と、蘊等の諸法が真実成立であると捉える微細な所知障との二つがあると主張している。

J3 道の本性

五道が〔乗それぞれに〕三つで合計十五個あると承認することについては〔唯識派と〕同じだが、〔唯識派との〕違いは独覚の無間道と解脱道には二空の形象を伴う必要があることを承認することである。

I3 果の主張内容

独覚は粗大所知障を所断の中心とするので八輩の規定は適用されないが、声聞には八輩が各々有ると考えている。声聞種姓決定者は人無我を証得する見解を所修の中心とし、最終的には修道の金剛喩定に基づき、煩悩障を残り無く断じたと同時に阿羅漢果を現証する。独覚種姓決定者は、把握対象と把握主体の二空の見解を所修の中心とし、最終的には修道の金剛喩定に基づき、煩悩障・粗大所知障を残り無く断じたと同時に独覚阿羅漢果を現証する。小乗涅槃には有余依涅槃・無余依涅槃の二つがあるが、前者は、過去の業と煩悩により等起した苦蘊という余依を伴う涅槃であり、後者は苦蘊を離れた階位であると主張する。声聞・独覚の阿羅漢であれば、必ず大乗道に入る。何故ならば究極的には乗は一つとして成立している、と主張するからである。このことからこの教義上では、声聞・独覚の両者は、所断と証得の種姓が異なっているため、得るべき果にも優劣が有る。大乗種姓確定者は、無上菩提を発心し、資糧道上品の階位において、法相続三昧に基づき殊勝化身仏から教誡を直接聴聞して、その内容を実習したことによって空性を所縁とする修所成の智慧をまず起して、その時加行道へと移る。煖位において、見所断たる雜染現前態の能取分別を鎮静し、頂位を得た時、見所断たる清浄現前態の所取分別を鎮静し、忍位を得た時、見所断たる清浄現前態の実体把握分別を鎮静し、世第一法位を得た時、現前態たる仮設把握分別を鎮静する。煖・頂・忍・世第一法の四者のことは、順に「顕現を獲得する三昧」「顕現を増加させる三昧」「部分的に実義に対面している三昧」「不断の三昧」と呼ばれている。この直後に見道の無間道により、分別起の煩悩障と分別起の所知障とを種子と共に断じて、解脱道と滅諦との両方を現証する。修道の九品においては、修所断たる百八の煩悩の種子、および修所断の百八の所知障の種子を順次断じると説かれる。最期相続の無間道に於いて倶生起の煩悩障と倶生起の所知障の両方を各々断じ、その第二刹那に無上正等覚を得る。

大乗涅槃・無住処涅槃を同義であると主張し、仏身は四つであるという定数を主張している。アールヤヴィムクティセーナとハリバドラの二人はまた身の説明の仕方について論争しているのであって、定数について論争しているのではない。

仏陀の仏語に未了義経・了義経の規定をする。世俗真実を直接示すことを説示内容の中心としている経典が未了義経であり、勝義真実を直接示すことを説示内容の中心としている経典が了義経であるからである。『解深密経』で説かれる初転法輪は未了義であり、中転法輪・後転法輪の二つには了義・未了義が二つずつあると主張する。

H2 経量行中観派の教義の説明

H2の経量行中観派の教義の説明には、I1基体・I2道・I3果の三つがある。

I1 基体

この教義は、外部対象を主張し自己認証を承認しないことのみ以外の大部分の基体の規定は、前者(瑜伽行中観派)と同じである。

I2 道

道に関する違いは、声聞・独覚の種姓決定者に法無我の証得が無いと考えること・所取・能取が別異実体であることに関する空を証得する慧を承認しないこと・外部対象を捉える分別も所知障であるとは主張しないこと〔の三つ〕がある。

I3 果

果の規定については、声聞・独覚の所断たる障および証得対象たる無我に微細・粗大という〔違い〕は無いので証得の種姓が異なることはなく、八輩の規定は両方になされる。大乗種姓決定者は、二障を順次に断じると考える。「第八地を得た時には煩悩障を尽断している」と『思択焔』で説明しているからである。しかしながら、帰謬派の如く「煩悩障が尽きない間は所知障を断じ始めない」とは考えていない。

こうした異なる点以外の基体・道・果の三つの規定の大部分は、瑜伽行中観自立派と一致している。

自相は有るけれども、真実としては無いと考える、
自立を論じる学説のすべての分類を、
自分勝手に表現することを避け善く述べたこれが、
自身は賢者たらんと望む者により捉えられんことを、嗚呼。

これは中間偈である。


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