Last Updated: 2018.12.04

D3 唯識派の学説の規定の説明

クンケン・ジクメワンポ著『学説規定摩尼宝蔓』試訳

D3には、E1定義・E2分類・E3語源解釈・E4主張内容との四つが有る。

E1 定義

外部対象を承認せず、依他起は真実成立であると主張する仏教内部の学説論者、これが唯識派の定義である。

E2 分類

この学派を分けると、唯識形象真実派・唯識形象虚偽派の二つがある。この両者の違いは有る。何故ならば、「青を捉える眼識における青の青としての顕現」というこれが形象真実派・形象虚偽派が論争する基体たる「形象」であり、形象真実派は「青を捉える眼識に青は青として顕現している通りのものとして成立している」と承認しているが、形象虚偽派は「青を捉える眼識に青は青として顕現している通りのものとして成立していない」と承認するからである。そうなる。何故ならば、形象真実派・形象虚偽派の両者ともが、青を捉える眼識に青が青として顕現すること・青が粗大として顕現すること・青が外部対象として顕現することを主張することについては一致しているけれども、形象真実派は「青を捉える眼識に青の外部対象としての顕現に対して無明による染汚が働いており、青の青としての顕現や青の粗大としての顕現に対しては無明による染汚が働いていない」と主張するのに対し、形象虚偽派は「青の外部対象として顕現してのみではなく、青の青としての顕現と青の粗大としての顕現に対しても無明による染汚が働いている」と主張するからである。

それ故、唯識派であり、かつ、感官認識に粗大として顕現している通りに成立していると主張する人、これが唯識形象真実派の定義であり、唯識派でありかつ、感官認識に粗大なものとして顕現している通りには成立しないと主張する人、これが唯識形象虚偽派の定義である。

形象真実派を分類すれば、主客同数論・一卵半塊論・多様不二論の三つがある。この三つの差異についての諸々の学者たちの考え方は異なっている。グンル・ゲルツェンサンポの『中観特効薬』では次のように説明される。

蝶の羽根の上の文様を捉える眼識が文様を捉える時に、客体の側から青・黄等の異なったものがそれぞれの形象を投影し、主体の側からも青・黄等の異なったものがそれぞれの形象を真実の形象として生じる、と主張しているので、「主客同数論」なのである。そうしたもの(蝶の羽根の上の文様)を捉える時、客体の側からは青・黄等の異なったものがそれぞれの形象を投影するけれども、主体の側からは青・黄等の異なったものそれぞれの形象は形象の無いものとして生じる、と主張しているので「一卵半塊論」なのである。そうしたもの(蝶の羽根の上の文様)を捉えている時、客体の側から青・黄等の異なったものがそれぞれの形象を投影することはなく、全体としての文様の形象を投影し、主体の側からは青・黄等の異なったものそれぞれの形象が形象の無いものとして生じていなくても、単なる文様の形象が形象の無いものとして生じる、と主張するので「多様不二論」なのである。

またドゥンチェン・レクパサンポとパンチェン・ソナムタクパなどは次のように説明している。

文様を捉える感官認識上に顕現している青や黄との二つが別異実体であるのと同様、文様を捉える眼識上に別異実体である多数の眼識が有る、と承認するので、「主客同数論」である。青と青を捉える眼識との二つは一般的には認識を本質としている〔という点で共通している〕が、両者は別異実体である、と承認するので「一卵半塊論」なのである。文様上の青・黄の二者が同一実体であるのと同様、文様を捉える眼識上の青・黄とを捉える二つの感官認識が同一実体である、と主張するので「多様不二論」なのである。

(一切智者ジャムヤンシェーパの)『学説規定大論』では次のように説明される。

文様を捉える眼識が文様を見ている時、文様上の青・黄等と同数の同種類の認識が同時に生じる、と主張しているので「主客同数論」なのである。青と青を捉える眼識との二つは成立時という観点では前後しているが、知覚時という観点では同一実体である、と承認するので「一卵半塊論」なのである。文様を捉える眼識が、それ自身の客体を見ている時、客体上にある青・黄等と同数の同種類の認識が同時には生じないけれども、文様を捉える眼識それ自体は文様上の青・黄等を捉える感官認識である、と承認するので「多様不二論」なのである。

以上のような説明があるが、この三つの学説から好きなものを選ぶとよい。主客同数論には、八識身を主張する者・六識身を主張する者、という二つが有る。多様不二論のなかには、六識身を説く者・一識身を説く者という二つが有るとも説かれている。形象虚偽派を分類すれば、有垢派・無垢派という二つの形象虚偽派が有る。心それ自体が無明の習気の垢で汚染されていると主張するので「有垢派」と言われ、心自体は無明の習気の垢によって微塵程も汚染されていないと主張するので「無垢派」と言われるのである。或いはまた、仏地であれば無明は無いが錯乱顕現は有ると主張するので「有垢派」であり、仏地であれば無明は無いので錯乱顕現も無いと主張するので「無垢派」であると言われるのである。

また唯識派を分類すれば、聖典追従派・正理追従派の二派がある。前者は「五地書」(『瑜伽師地論』)の追従者であり、後者は「量七部書」の追従者である。

E3 語源解釈

  何故「唯識派」と呼ばれるかと言えば、一切法は心を本質としているに過ぎないものであると論じるので「唯心派」「表象派」であり、瑜伽行者の基体を通じて道行の実習を決択するので「瑜伽行派」とも言われる。

E4 主張内容

 主張内容については、F1基体・F2道・F3果の三つが有る。

F1 基体

 基体には、G1客体・G2主体の二つが有る。

G1 客体

一切の所知は三つの特質(三性)に纏められる、と主張している。一切の有為は依他起であり、一切の法性は円成実であり、それ以外のものは遍計所執であると主張するからである。これらの三者は、それ自身の側から成立し、本性により成立していると主張しているが、真実として成立しているものか、真実として成立していないものなのか、という違いが有る。遍計所執は真実無であり、依他起・円成実の二者は真実成立であると主張するからである。

勝義として成立しないが分別の個体として成立しているもの、これが遍計所執の定義である。これを分類すれば、異門遍計所執・相断遍計所執の二つが有る。前者はたとえば所知であり、後者はたとえば二我である。因縁という他の力に基づいて生じている、円成実の基体、これが依他起の定義である。これを分類すれば、清浄依他起・不浄依他起の二つがある。前者はたとえば聖者の後得智・仏の相好であり、後者はたとえば有漏の取蘊である。二我のいづれかに関する空たる真如、これが円成実の定義である。これを分類すれば、不転倒円成実・不変易円成実の二つが有る。前者はたとえば聖者三昧智であり、後者はたとえば法性である。不転倒円成実は、円成実の分類には挙げられるが円成実ではない。それを所縁とした時に障が尽きるような清浄道の究竟の所縁ではないからである。

また所知を分類すれば、世俗諦・勝義諦の二つが有る。言説を考察する正理知の量によって得られる対象、これが世俗諦の定義である。虚偽・世俗諦・言説真実は同義である。勝義を考察する正理知の量により得られる対象、これが勝義諦の定義である。空性・法界・円成実・勝義諦・実際・真如は同義であると主張する。勝義諦であればそれ自身の特質によって成立しているものであるけれども、世俗諦であるからといってそれ自身の特質によって成立しているものである訳ではない。何故ならば、依他起はそれ自身の特質によって成立しているけれども、遍計所執の諸法はそれ自身の特質によっては成立していないからである。虚偽であるからといって虚偽として成立している訳ではない。何故ならば、依他起は虚偽ではあるけれども虚偽として成立していないからである。

三世や絶対否定についての設定形式は、経量部・唯識派・自立派の三派は一致している。色等の五境は外部対象としては成立していない。阿頼耶識上に不共業によって習気が置かれたことにより、内識という実体の上に転変しているものであるからである。形象真実派は、色等の五境は外部対象ではないが、粗大として成立することを承認する。一方、形象虚偽派は、そのようであれば、外部対象として成立している筈であるので、粗大として成立していないと承認する。

G2 主体

聖典追従派は八識身を主張することで、意識・阿頼耶識を人であると承認する。正理追従派は意識が人の定義基体であると主張する。

ここで阿頼耶識とは、内部の習気を所縁としており、形象を細分することが出来ず、個体としては無覆無記で、補助する心所五遍行と相応している、根本たる、堅固な意の表象であることによって特徴付けられるもののことであると主張している。これ(阿頼耶識)には更に有覆・無覆の二つがあるが、そのうちの有覆は無記ではなく、善根を尽した相続上にも有るので善でもなく、〔色界・無色界の二つの〕上界に有るので不善でもない。染汚意とは、所縁として阿頼耶識を所縁とし、形象としては「私」という思いの形象を有しており、個体としては有覆無記なるもののことであると主張する。〔眼識から意識までの〕六つの活動している識に対する規定の内容は、仏教の一般的な学説と同じである。量に現量・比量の二つを承認し、現量の四つの規定を承認する。自己認証現量・瑜伽行現量のいづれかであれば錯乱認識ではない。形象真実派は、凡夫の相続にある青を捉える眼識は非錯乱認識である、と主張するが、形象虚偽派によれば、凡夫の相続にある感官現量であれば錯乱認識であり、その相続の意現量には錯乱部分・非錯乱部分との二つの部分が有ると主張している。

F2 道の主張内容

F2の道の主張内容にも三つ有る。

G1 道の所縁

 道の所縁は、四諦の特性たる無常等の十六行相・人が常住・単一・自在なものに関して空であるという粗大人無我・人は独立自存の実体として有ることに関して空であるという微細人無我との〔合計〕三つ〔の所縁〕がある。「色と色を捉える量とが別異実体であることに関して空である」・「色は色を捉える分別知の思い込みの基体上に、それ自身の特質によって成立しているものに関して空である」という二つの空が微細法無我であると主張する。二つの微細無我は両方とも空性であると主張しているが、空性ならばそのいづれかでなければならないという訳ではない。滅諦と涅槃の二つも空性であると主張するからである。有為の諸法とそれ自身を捉える量とは同一実体であると主張するが、無為の諸法とそれ自身を捉える量は同一個体であると主張している。

G2 道の所断

道の所断には、煩悩障・所知障の二つがある。前者は、微細・粗大の両人我執とその種子・根本六煩悩・二十隨煩悩などである。後者は法我執とその習気のことである。更に諸々の菩薩たちは所知障を所断の中心とするが、煩悩障を所断の中心としない。一方、小乗の有学者たちは煩悩障を所断の中心とするけれども、所知障を所断の中心とはしない。

G3 道の規定

道の規定については、三乗それぞれに資糧道・加行道の二つ、見道・修道の二つ、および無学道、という合計で五道の規定をしているが、大乗には更にその上に十地の規定をも承認する。

F3 果

果を現証する仕方は以下の通りである。小乗種姓決定者は、人無我を指す円成実を所修の中心とし、修習を究竟した時に、小乗修道の金剛喩定に基づき、煩悩障を残り無く断じたと同時に小乗阿羅漢果を現証する。声聞・独覚の両者は所修の無我と所断の煩悩とに差異が微塵程も無いので、声聞・独覚の両者に八輩の規定は適用されるが、独覚は欲界の所依をとることが確定しているので二十僧伽の規定は適用されない。しかし、声聞・独覚の両者に差異がないという訳ではなく、百劫の福徳資糧の修習を経ている者(独覚)か経ていない者(声聞)かということと、その力により果にも優劣が有るということとを主張している。聖典追従派は、小乗阿羅漢は寂静へ向かうだけで大乗道へ入ることを主張していないが、菩提を円満なものとする阿羅漢は大乗道に入ることが有ると主張する。しかしこれも有余依〔涅槃〕以降であり、無余依〔涅槃〕以前に〔大乗道へ〕入るわけではない。究極的には乗は三つ成立していると主張するからである。正理追従派は、小乗阿羅漢は大乗道に入ると主張している。何故ならば究極的には乗は一つ成立していることを承認するからである。大乗種姓保有者は、法無我を指す円成実を所修の中心とし、三阿僧祇劫の間、資糧道・加行道を行じた後に、十地・五道を順次歩み、最後相続の無間道により二障を尽断し、色究竟天において自利たる断・証を円満した法身と、利他たる偉業を円満した色身との二身を現証する。『阿毘達磨集論』に追従する或る人々は、人間の所依において成仏する者も居るとしているようである。

仏陀の仏語に了義・未了義の区別をも承認する。『解深密経』で説かれる初転法輪と中転法輪は未了義経であり、後転法輪は了義経であると考えるからである。了義と未了義は有る。直接の説示を言葉通りであるとは承認出来ないもの、これが未了義経であり、直接の説示を言葉通りであると承認出来るもの、これが了義経であるとするからである。涅槃には有余依・無余依・無住処という三涅槃があり、仏身には法身・受容身・化身の三身があり、法身には自性身・智慧法身の二つがあり、自性身には自性清浄身・離客塵垢自性身の二つがあることを承認するので、大乗の学説論者であると言われるのである。

導師、牟尼の御言葉に追従し、
表象のみであると説く様々な学説を
賢者の教え通りに掲載したものであるここに、
考察力のある者は、歓喜をもって入れるがよいだろう。

これは中間偈である。


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