D1には、E1定義・E2分類・E3語義説明・E4主張内容の四つが有る。
E1 定義
自己認証を主張せず、外部対象が真実成立であると主張する小乗の学説論者、これが毘婆沙部の定義である。
E2 分類
それを分類するとカシミール毘婆沙部・西方の毘婆沙部・中央地方の毘婆沙部との三つが有る。
E3 語義説明
阿闍梨ヴァスミトラ(世友)、有法。彼に対して「毘婆沙部」(vaibhāṣika)と言われる理由が有る。『阿毘達磨大毘婆沙論』に従って学説を論じ、三世は実体(dravya)の特殊項(viśeṣa)であると述べるので「毘婆沙部」(vaibhāṣika)と呼ばれるからである。
E4 主張内容
E4主張内容には、F1基体の主張内容・F2道の主張内容・F3果の主張内容とが有る。
F1 基体の主張内容
F1には二つ、すなわちG1客体の主張内容・G2主体の主張内容とが有る。
G1 客体の主張内容
この教義は一切の所知は五つの基体(五事・五位)に帰属させることが可能であると主張する。すなわち顕現である「色」という基体・根本である「心」という基体・輪廻である「心所」という基体・「〔心〕不相応行」という基体・「無為」という基体〔の五つ〕である。更にこれら五基体は事物であると主張する。実用性の有るもの、これが事物の定義であり、有・所知・事物は同義である。無為の諸法は常住な事物であり、色・識・不相応行は無常な事物であると主張している。事物であれば必ず実体成立であるが、〔事物であるからといって〕実体有であるという訳ではない。何故ならば、勝義諦・実体有は同義であり、世俗諦・仮設有は同義であると主張するからである。
H1 二諦
破壊されたり、知で各部位を排除した時に、それであると捉える知が破棄されることが可能な法として観られるもの、これが世俗諦の定義である。定義基体は、たとえば陶器の瓶や念珠である。陶器の瓶を槌で破壊した時、陶器の瓶であると捉える知は破棄されるからであり、念珠の各々の珠を排除するとき、そこに数珠であると捉える知は破棄されるからである。破壊されたり、知で各部位を排除した時に、それで捉える知が破棄されることが出来ない法として観られるもの、これが勝義諦の定義である。定義基体は、無方分極微、無刹那分認識・無為の虚空等である。何故ならば『倶舎論』で、
破壊されたり知で他のものを排除している時
それであるという知が働かないもの
これは瓶の中の水のように世俗として有る
勝義として有るものとはこれ以外のものである
と説かれるからである。
このことにより、諸々の世俗諦は勝義として成立していないが、真実として成立している、と主張している。この教義は、事物であれば真実成立であることを承認するからである。
H2 有漏・無漏
所縁・相応行のいずれかを通じ漏が増加する可能性がある法、これが有漏の定義である。定義基体は、たとえば五蘊である。所縁・相応行のいずれかを通じ漏が増加する可能性がない法、これが無漏の定義である。定義基体はたとえば道諦・無為である。『倶舎論』で、「道以外の有為は有漏であり」「無漏とはまた道諦と〔虚空・択滅・非択滅〕三種類の無為のことである」と説かれるからである。
有漏であれば所断である。資糧道・加行道は所断であるからである。見道は無漏しかなく、修道・無学道の二つには、各々に有漏道・無漏道の両方が有る。聖道であれば無漏であるが、聖者の心相続の道であるからといって、必ずしも無漏ではない。修道の者の心相続にある寂静・粗大の形相を有する道は有漏であるからである。
H3 それから派生する他の内容の説明
〔過去・現在・未来の〕三世は実体であると主張する。瓶は瓶の過去時にも有り、瓶は瓶の未来時にも有ると主張するからである。否定・肯定の二つ〔という所知の分類〕は承認するけれども、絶対否定を承認しない。否定であればそれは相対否定であると主張するからである。
カシミールの毘婆沙部は、経量部と同じように、業果の関係の所依としての識相続を承認するが、それ以外の毘婆沙部は業果の関係の所依として「得」と、債務のように免除されない類の不相応行を承認し、帰謬派とこの学派との両派の教義では、身口業は有色であると主張する。
有為であれば、無常であるが、刹那者ではない。生起した後に存続作用がはたらき、その後になって消滅作用がはたらくと主張するからである。
G2 主体(有境)の主張内容
主体の主張内容には、H1人・H2識・H3言表主体である声との三つがある。
H1 人
仮設基体である五蘊の単なる集合、これが人の定義基体である。正量部の中の或る者は五蘊の各部が人の定義基体であり、守護部は単なる心が人の定義基体であると主張している。
H2 識
識には、量識と非量識の二つが有る。前者には現量量と比量量の二量が有る。前者には感官現量・意現量・瑜伽現量の三つが有るけれども、自己認証現量は承認しない。感官現量量であれば認識であるという訳ではない。有色眼根は物質・見解・量の三つの共通基体であるからである。感官認識は形象を伴わず裸眼の状態と同じように計量し、有所依の有色眼根も色を見ると主張している。もしも識のみで見ているとすれば、壁などによって妨げられている色すらも見えることになってしまうと言っており、心・心所は別異実体であると主張している。後者の非量の識には誤認などが有る。
H3 言表主体である声
一般に声(音)を分類すれば、有執受声・無執受声の二つが有る。前者は例えば生物が発する声である。後者は例えば水の音のようなものである。有執受声・無執受声の各々に更に有情であるとを示すもの・有情であるとを示さないものとが二つずつ有る。有情であると示す声、ことばを表象する声、言表主体たる声の三つは同義である。仏語と論書の両者も、名詞・句・文章が集合した本質を有する、言語普遍像たる不相応行であると承認するので、この教義では物質と不相応行とは対立しないようである。
F2 道の主張内容
F2道の規定の説明には、G1道の所縁の説明・G2道の所断の説明・G3道の本性の説明〔の三つが有る〕。
G1 道の所縁の説明
道の所縁は、四諦の特性である無常等の十六項目であるが、微細無我と微細人無我とは同義であると主張し、人が独立自存の実体有であることに関する空が微細人無我であると承認している。十八部派のうち五正量部は人が独立自存な実体有に関して空であるという微細人無我を主張しない。何故ならば、この部派は独立自存な実体有たる我が有ることを承認しているからである。粗大法無我・微細法無我という設定は承認しない。何故ならば、基体成立ならば法我であると承認するからである。
G1 道の所縁の説明
道の所断には、染汚無知・不染汚無知の二つがある。そのうち前者は、主に解脱を獲得することを妨げる。定義基体は、人我執・それによって生じた三毒・その種子である。後者(不染汚無明)は、一切智を獲得することを妨げる。定義基体は、如来の甚深な微細の法に対する無知という不染汚の障等の無知の四つの原因である。障については、この二つとは異なる「所知障」という言説を承認していない。
G3 道の本性の説明
三乗道に資糧道・加行道・見道・修道・無学道という五道の規定を承認するけれども、十地の智慧を主張しない。智・忍の十六刹那のうち、前十五刹那は見道であり、第十六刹那の道類智は修道であり、山羊が順序立てて階段を昇るのと同じように、順序立てて生じる、と主張している。道諦であるからといって認識である訳ではない。何故ならば無漏の五蘊を道諦であると主張しているからである。
F3 果の主張内容
声聞種姓保有者は無常等の十六行相を三度程転生する間修習して、最終的に、声聞修道たる金剛喩定に基づき、有染汚障を得るのを止めるという形で断じ、阿羅漢果を現証する。
如犀独覚は、人が独立自存の実体有に関して空であると証得する見解を百大劫等の福徳資糧と結びつけ、資糧道上品以前に既に実習した後、加行道煖位から無学道までを一座で現証する。
劣阿羅漢はまた自分の断・証から再度堕落し向流となることが有り得るので堕落する性質を持つ者がいることなどを承認している。
声聞には二十僧伽と八輩の規定を想定するが、同位である者を承認しない。八輩のいずれかであれば聖者であると主張している。
菩薩は、資糧道の階位において三阿僧祇劫の間に資糧を究竟させ、それに続く百大劫の間で相好の因を成就し、有の最期の生の時、菩提樹の下で夕方天子魔を調伏し、夜中に三昧に入っている時、加行道・見道・修道の三道を現証し、その後夜明け前の日の入り直前に無学道を現証する。
したがって、夕方に魔を調伏する以前は凡夫位であり、菩薩の加行道・見道・修道の三道は禅定に属すると主張する。
〔釈尊の〕十二行状のうちの前九行状は菩薩の行状であり、後三行状は仏陀の行状であると承認する。証得法輪であれば見道であり、聖言法輪であれば四諦法輪であると主張する。
阿毘達磨七部論書は、仏説である仏語であると承認し、仏語であれば言葉通りである〔としている〕。法蘊については八万法蘊より多い八万四千の法蘊の規定を承認してない。『倶舎論』で「法蘊は八万であり、牟尼によって説かれたこれらは」と説かれているからである。
有の最期の菩薩が菩提を現証する場は欲界のみに決定しているので、色究竟密厳天や受容身の規定を承認しておらず、更に一切相智をも主張していない。三乗阿羅漢であれば、必ず有余依である。無余依涅槃の世で、灯明が消えるように知の相続が途絶えると主張するからである。このことによって究極的に乗は三つ成立するとも承認している。
ある者は「釈尊の涅槃時に、特定の所化にとって色身として示現していたものを元通りになされたのに過ぎず、実在対象としての涅槃は無い」と述べているが、これは魚と蕪とを見間違えているのに等しい。仏陀聖者は一切の苦しみを残りなく断じているけれども、彼の心相続に苦諦が有ることは対立していない。苦諦を所縁する煩悩を残りなく断じた時、苦諦は断じられているとするからである。色身は、それ以前の菩薩の加行道者の身依と同じ生に帰属するので、仏宝ではないが仏であると承認する。仏宝とは彼の御心の相続上にある尽・無生の智であると主張している。これと同様に、有学聖者は有漏であるので、僧宝ではないが僧であり、僧宝は彼の相続にある道諦であると主張している。法宝も同様に設定可能である。仏と声聞独覚の両方の心相続上の涅槃・滅諦がそれであるからである。
記
我が知の考察という金の壺より
毘婆沙部の宗義の海から取りだした
この善説の新鮮な甘露の饗宴に
若き明慧者の群れが戯れんことを
これは中間偈である。