Last Updated: 2018.12.04

B1 外教の学説の規定の概説

クンケン・ジクメワンポ著『学説規定摩尼宝蔓』試訳(2)

B1 外教の学説の規定の概説

学説論者であり、かつ、三宝に帰依せず、それとは別の説法者が有ると承認している人、これが外教学説論者の定義である。それを分類するとあらゆるものがあるけれども、纏めるならば、ヴィシュヌ派・イーシュヴァラ派・ジャイナ派・カピラ派(サーンキヤ学派)、ブリハスパティ派という五詭弁家が有名であるが、根本学派は六つ有ると言われている。すなわち、ヴァイシェーシカ学派・ニヤーヤ学派・サーンキヤ学派・ミーマーンサー学派・ニルグランタ学派・ローカーヤタ学派である。これらの前五学派は常見であり、最後の学派は断見である。

C1 ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派

さてまた、ヴァイシェーシカ学派はカナーダ仙人の追従者であり、ニヤーヤ学派は婆羅門アクシャパーダの追従者であり、この両学派は内部の項目の主張において共通していない箇所が若干有るが、学説全体としては異なっていない。

ヴァイシェーシカ学派・ニヤーヤ学派は一切の所知は九つの実体に纏められると主張しており、沐浴・潅頂・断食・供養・護摩供養等が解脱道であることを承認し、如何なる時もグルの口伝に基づき瑜伽行を実践し、我が感官等と異なった対象であることを理解することから実義を見て、六句義の本性を証得した時、我は〔すべてに〕遍在する本性であるが行為を為さない、と理解する。法(正しいこと)・非法(正しくないこと)の両業ともに積むことなど全く有り得ないとし、新たな業を積まないで古いものを尽すことで再生した身体・感官・知・楽・苦・貪・瞋などが我から離れており、新しい業や感官を取ることは無いので、薪を欠いた火の如く、生の相続が断絶し、単なる我のみのものへと転換する。この時点で解脱が獲得されると言っている。

C2 サーンキヤ学派

サーンキヤ学派は、カピラ仙人の追従者であり、一切の所知は二十五項目のみに確定していると主張する。我(̄ātman)・根本原質(prakṛti)・大(mahat)・我慢・五単純体(tanmātra)・十一感官(indriya)・五大元素(bhūta)とで合計二十五項目である。

五単純体とは、色・声・香・味・触の五つである。十一感官とは五つの知覚的感官・五つの身体的感官・意識的感官のことである。五つの知覚的感官とは、眼・耳・鼻・舌・皮膚の感官のことである。五つの身体的感官とは言葉・手・足・排泄器官・生殖器官のことである。五大元素とは、地・水・火・風・空のことである。これらから生じたものが認識であるが、残りの二十四個は集積体であるので物質であると主張している。

根本原質・プルシャは勝義諦であるが、それ以外のものは世俗諦だと主張する。

この学説では、〝因であるが果ではないもの〟・〝因でも果でも両方であるもの〟・〝果であるが因でないもの〟・〝因でも果でもないもの〟という四句分別がある。第一句は普遍・根本原質がそれであり、第二句は知覚・我慢・五単純体の七つがそれであり、第三句は残りの十六項目がそれであり、第四句はプルシャがそれである。これについてはまた、「イーシュヴァラクリシュナ・タントラ」(『サーンキヤ・カーリカー』)で、

根本的本性は開展体ではなく、
大などの七つは、本性であり、開展体である、
〔それ以外の〕十六個は開展体であり、
プルシャは本性でもないし、開展体でもない。
と説明される通りである。

更にまた根本的本性・普遍・根本原質は同義であり、六つの特質を有する所知であると主張する。プルシャ・我・識・明知は動議である。

残りの二十三項目の生成形式は以下の通りである。すなわちある時、このプルシャが客体を受容したいという欲を生じる限り、根本的本性が声等の転変を変出させる。根本原質からは大が生じ、知・大は同義語で、これらは外部から客体の鏡像を立ち昇らせ、内部からプルシャの鏡像を立ち昇らせる、両面鏡の如きものであると主張している。

それ(知)から我慢が生じるのだが、我慢を分類すれば、開展体を伴う我慢・激質を伴う我慢・闇質を伴う我慢の三つが有る。第一のものからは五単純体が生じ、それから更に五大元素が生じる。第二のものからは十一感官が生じる。第三のものは、これ以外の二つの我慢を活動させるものである、と言っている。更に「足はあるが視覚に障害が有る人」のような本性と「視覚はあるけれども手足が不自由な人」のようなプルシャとの二つを一つのものであると錯乱して、開展体が根本的本性から変出されたことを理解していないことによって、輪廻を輪廻すると主張している。

如何なる時であれグルによって教示された口訣を聴き、それに基づいて、これらの開展体が本性によって変出されているに過ぎない、と確定する認識をよく起した時には、次第に客体に対する貪りを離れ、その時禅定に基づいて天眼神通力を生じる。神通力が根本原質を観ている時、この根本原質は他人の女の如く恥ずかしがり戸惑って開展体を引き集めて、本性だけが単独で存続する。この時瑜伽行者の知の側では世俗の顕現すべてが退けられ、プルシャが客体を受容せずに活動しない状態となり、この時解脱が獲得される、と主張している。

C3 ミーマーンサー学派の学説設定

ミーマーンサー学派とは、ジャイミニの追従者である。「何であれ、ヴェーダに顕れているものは、自然生であり、それが実義である」と増益し、供養儀式等だけにより上位世界の位を得ることが可能であると主張するが、これは〔単に〕悪趣から解放されたという解脱に過ぎないと承認してはいる。しかしながら、苦が寂滅する解脱は有り得ない。何故ならば、垢が心の本性に有るからである。一切智もまた有り得ないものである。何故ならば、所知は無限であるからである。したがって、真実の言葉というのも無い。以上のように主張している。

C4 ニルグランタ学派(ジャイナ教)の学説設定

ニルグランタ学派は聖仙ジナの追従者であり、一切の所知は九つの実在対象に纏められると主張している。すなわち、命・漏・律儀・必老・束縛・業・罪・福徳・解脱〔の九つ〕である。そのうちの命とは我のことであり、ちょうど人間の身の丈ほどあり、本質は常住だが、一時的には無常な本性をも有する。漏とは善・不善の諸業である。それによって輪廻に漏洩させられるからである。律儀とは漏の止滅である。業を新たに積むことが無いからである。必老とは渇きを癒さずに身体を酷使するといった苦行を通じて過去に積んだ業を尽くすことである。束縛とは、誤った見解のことである。業は四種類であり、すなわち、後から受けるもの・名声・家柄・寿命〔の四種類が〕がある。罪とは非法である。福徳とは法である。解脱とは、裸体・沈黙・五灸などの苦行に基づいて過去に為した一切の業を尽し、業を新たに積まないことで、一切の世間の上方にある「一切世間の集積所」と呼ばれる、白い傘を逆にしたような形で、ヨーグルトやクムダ蓮華のように純白で、四五〇万由旬程の大きさで、命を有するので事物であるが、輪廻から離脱した非事物でもある場所であり、そこへ赴くこと、そこに住すること、これが「解脱」と言われる。すなわち、聖仙ジナは

雪の色をしており、花の薫りが漂い、
牛のヨーグルトや霜や真珠のような彩りの、
白き傘を吊した形に似ているもの、
それが解脱であるとジナは説いた。

と言っている。

C5 ローカーヤタ学派の学説設定

ローカーヤタ学派(順世外教)の学説は次のようなものである。前世から今世へとやって来ることは無い。何故なら前世など誰も見たことが無いからである。偶然的な身体により、心は偶然的なものとして成立し、ちょうどバターランプが偶然的に成立している時に、そこから明かりが偶然的に成立しているのと同様である。今生から来世へ行くということも無い。何故なら身体と心とは同一実体であるので、身体が滅する時には精神も滅するからである。これはちょうど岩が滅する時、岩の上にある文様も滅するのと同じである。以上のことからこの学派は、所量は自相のみであり、量は現量のみであると主張している。何故ならば、共相や比量は承認しないからである。ローカーヤタ学派のある学者は、一切の事物は原因を伴わないで本性から生じていると主張している。すなわち、

太陽が昇ることや、河が下流に流れていくこと、
エンドウ豆が丸いこと、棘が尖っていること、
孔雀の羽に顔の文様があることなどの一切の法は
誰が作ったものでもなく、本性から生じるのである。

と述べている。

悪しき見解という辺に渡るための桟たる、
外岸の学説の本性を余すことなく、
善く理解して、断じること、
これが解脱の街へと踏込む階梯なのである。

これは、中間偈である。