稀有なる二資量の雪山は慈悲の煖で溶け出す
自然成就の法身の地を巡り 四種の学説の河流は分岐する
偉業の大波は天空に届く 外教の童子たちを畏怖するだろう
千万の龍を戴く勝子の港 大湖マナサロワール 牟尼自在に勝利あれ
勝者の代理人 不敗の救主
勝者の智慧を一つにする文殊師利
勝者に授記されしナーガルジュナ アサンガ
第二の勝者たる聖父子たちに私は頂礼する
学説の規定を理解すれば、内外の教説の差異すべてが明らかになる
円満な学者のなか清浄なる最上説法者の禁戒の稀有なる守り手たることを表す
純白の旗印は、偏見を捨てた者によってこそ掲げられるものである
自派・他派の学説の実義を判別する努力を学者が捨てることがあるだろうか
それゆえ勝れた人々の善説をいまここにすべて要約し
私と運命を共にする者たちへと与えるため
学説の規定を簡単に纏め述べてみたい
明晰な智慧を追求する人々よ、謹んで聴き給え
今生の財産・繁栄・名声を省みることなく、心から解脱を追求する人は、清浄な無我の見解を証得するための方便に励まねばならない。何故ならば、甚深見を離れて、慈悲や菩提心をいくら修習したとしても苦を根絶出来ないからである。ツォンカパ大師は次のように説かれている。
実相を理解する智慧をもたなければ
出離や菩提心をどのように修習しても
生存の根本を断ち切ることなどできない
しかるに縁起を証する方便に励むべきである
しかるに、見解の過失を断じて、微細・粗大な無我次第を確定するために、自他の学説の規定を簡単に述べたい。それには二つ有る。すなわち、A1通説・A2詳説。
A1 通説
「トゥプター」という術語は造語ではない。仏陀の聖言に説かれるものであるからである。すなわち『入楞伽経』では、
私の教法の形式には二種類ある。教示と学説とである。
童子に対しては教示を説いた。瑜伽行者に対しては学説を説いた。
と説かれている通りである。
更に、人を分類すると、学説で知が変化していない者、学説で知が変化している者とがいる。前者は、聖典を学ぶこともなく、思考せず、分析せずに、倶生起の知で今生の安楽のみを追求する者である。後者は、聖典を学び、基体・道・果の三規定を自らの知にとってのものとして成立させ、その内容を聖言と正理の道を通して語る者である。
「トゥプター」の語義についてはまた〔ハリバドラ著〕『〔現観荘厳論〕語義解明』によれば「トゥプターとは、正理と聖典によって教示のなかに自己の主張が成立して(siddha)おり、それ以外へ越えないので端(anta)なのである」と説明されている。
このように聖言か正理のいづれかに依拠して判断し成立している命題とした内容が、各自の知にとってそれ以外の別の内容へと逸脱することのないので「トゥプター」と呼ばれるのである。
これ(学説)を分類すれば二つ有る。外教と仏教とである。単なる外教徒・仏教徒自体の違いは有る。心から三宝に帰依する者、これが仏教徒であり、三宝に心を向けず世間の見解に心から帰依する者、これが外教徒であるからである。
また外教学説論者と仏教学説論者との違いも有る。説法者・法・見解の三つを通じて分類されるからである。そうなる。自派は、説法者は一切の欠点が無く功徳を完うして、その教えは有情に対して暴力を与えることがなく、見解は、常一自在な我に関しての空を主張すること、という三つの特徴を備えているが、他派はこれとは逆であり、説法者は欠点があり功徳が完全なものではなく、教えは有情に対して暴力を与え、見解としては常一自在な我として成立していると承認しているという三つの特徴が有るからである。
A2 詳説
詳説には、B1外教の学説の規定の概説・B2自派の学説の設定を若干分類した説明。