仏教の究極の目的とは、一切衆生がこの世の苦しみと苦しみの原因を離れた、空性を直接理解する一切智者の位に到ることに他ならない。そのためにはまず修行の基体となるものは何か、そして修行はどのように行われるのか、その結果何がもたらされるのか、とういうことを理解する必要がある。それを理解しないで盲目的に行動を起しても無意味であるからである。
いざ仏教を実践しようとしたり、仏教の考え方は何かということを考える時、我々はこの宗教の長い歴史や伝統のなかで培われてきた広大な仏典や論書の取り扱いについて考えざるを得なくなる。もちろん、自分独りの考えだけによってそれらを模索することも出来よう。しかし自分が新しく創造した、発見したと思ったことは実は、様々な宗教や思想の中に既に存在していたものに過ぎないことの方が多い。過去の偉大な思想を参照する方が効率的であり、過去の仏教の伝承を通じて、私たちは自分が仏教徒としてどのように有るべきなのかを考えことができるのである。
空性の教えを理解する際に、釈尊自身により釈尊の考え方を将来説明するだろうと予言されている、ナーガルジュナやアサンガの考え方を下にすることが大切であるとジェ・ツォンカパは述べている。つまり、中観派や唯識派が釈尊の教説である空性をどのようなものとして考えたのか、彼らが空性を理解するための道程としてどのようなものを想定しているのか、ということを知ることは釈尊の教説を理解することに通じ、それは解脱に到るための道の第一歩なのである。したがって、我々はまず、この中観派や唯識派というものが何を主張しており、更に仏教とは何を主張しているのか、ということを過去の偉大なる学者たちの理解を下に自分の意識上に再構成しなければならないのである。そしてそのための書物として書かれた文献が「シッダーンタ」(サンスクリット語)「トゥプター」(チベット語)と呼ばれる文献群である。
長い仏教の歴史のなかでこの種の文献は多く存在しているが、特にチベットにおいてはゲルク派の十八世紀の大学匠クンケンジャムヤンシェーパ一世・ガワン・ツォンドゥー(1648-1721)の著した『学説規定大論』(トゥプターチェンモ)は非常に有名であり、珠玉の名作である。仏教の歴史上にこれほど精緻な大部の学説綱要書は例を見ないし、これを越える書物は将来も現われることはないと思われる。
『学説規定大論』は偈頌と自注との二つよりなるが、洋装本でも千ページを越える大著であるので、早急に訳出することは不可能であり、それを日本に紹介できないことを非常に残念に思う。しかし幸いにして、その書を要約したものである、彼の最初の転生者、クンケンジャムヤンシェーパ二世、クンチョク・ジクメワンポの著した『学説規定 摩尼宝鬘』を我々は手にすることが可能であり、この書は簡潔ながらもジャムヤンシェーパの学説を簡潔にまとめており簡便である。本書はこの『学説規定 摩尼宝鬘』を全訳したものである。
ここで簡単に著者を紹介しておこう。
クンケン・クンチョク・ジクメワンポ(1728-1791)は1728年(土猿)年、ドメーに生まれ、ジャムヤンシェーパの転生者であると認定され、6歳の時に出家し、16歳の時ラブラン・タシキルに入り、ラブランタシキルの創始者ジャムヤンシェーパの転生者として迎えられた。1749年、二二歳の時、チャンキャ二世ロルペードルジェより具足戒を授かり、「クンチョク・ジクンワンポ・イシ・ツォンドゥー」という名を授かった。
25歳の時に、中央チベットへ赴き、パルデンデプン僧院タシゴマン学堂へ入った。以後顕教と密教とを修め、1759年再びドメーへ戻り、ゴンルン弥勒院の座主となり、58歳の時にはダライラマ七世ジャンペル・ギャンツォの下で大祈願祭の中心人物となり、以後1791年に涅槃に入るまで、中央チベットと東チベットを往来し、特に満州・モンゴル・中国・チベットの外交関係の重要人物となった。
彼の著作には、『ジャムヤンシェーパ一世の伝記』・『本生譚註釈』・『ゲルク派仏教史』・『チョーネテンギュル目録』などのチベット仏教史を考える上で重要な書物をはじめとし、現在もゴマン学堂及びラブラン・タシキルの中観学の教科書である『中観小論』・仏教の修道論をまとめた書である、『地道規定・三乗荘厳』及び一七七三年、彼の四六歳の時の著作である本書『学説規定 摩尼宝鬘』が有名である。
これらは近世のチベット仏教の中国・満州・モンゴル・ロシアにおける教科書として使用され、現在でも多くの国々で読まれ、英訳もされている。