対立や憎しみをどのように乗り越えるのか
村上和雄
今も世の中には対立や憎しみがあります。これを解きほぐすにはどのようなアプローチが有効なのでしょうか。
ダライ・ラマ法王
それぞれの宗教には異なった様々な信仰があります。私は宗教を受け入れるか否かは個人次第であると考えておりますが、いずれかの宗教を一旦受け入れたならば、その信仰に基づいて実践をするべきですし、宗教的信仰がその人の人生の一部になるべきです。
各宗教にはそれぞれ異なった哲学や教義があります。しかし、世界の主な宗教はいずれも愛と慈悲という同じメッセージを伝えているのではないかと思います。また、この愛と慈悲に基づいて、“赦し”“寛容”“和解”“忍耐”“知足”の精神や自己の修養などが説かれています。従いまして、こうした点ではすべての宗教が同じなのです。
ですから、こうした宗教の伝統を受け入れて正しく実践すれば、誰もが自然に慈悲の心を具えた人になるはずです。教えを実践し、自分が真剣に信じていることを行なえば、より深い体験を何かしら得ることができるでしょう。そして、宗教的実践をすることで深い体験が得られたならば、他宗教の素晴らしさを見出すこともずっと簡単になるのではないでしょうか。
さて、ここで問題なのは“一つの宗教”や“一つの真実”という考え方です。過去においては、こうした考え方が非常に妥当であり重要でした。異なった伝統を持つ人々が、今に比べて多かれ少なかれ別個に暮らしていたからです。ですが、現代の世界では異なった宗教を信じる人々が、とても密接に関わり合っています。インドにはこのような状況が昔からありました。インドでは数千年も前から異なった伝統が共存してきたのです。インド社会において“一つの宗教”や“一つの真実”という考え方はあり得ません。社会的な観点からすれば、“複数の宗教”や“複数の真実”という考え方こそが現実的なのです。ですから、現代において私たちに必要なのは、二千年にわたってインドで培われてきた宗教多元主義の伝統なのです。
私たちは“信じること”と“敬うこと”を区別しなければなりません。私自身は仏教徒ですから、私の信仰はブッダに向けられています。しかし、それと同時に、私は他宗教に対しても深い尊敬と称賛の念を抱いておりますし、他宗教を高く評価しています。それはなぜかと言いますと、これらの他宗教は、過去にも現在にも未来においても、無数の人々に計り知れない恩恵を与えるものだからです。
哲学的な次元では、それぞれの宗教間に決定的な違いがあります。特に有神論を唱える宗教と無神論を唱える宗教とでは大きな違いがあると言えるでしょう。しかし、こうした違いは重要ではありません。私たち人間は実に様々な気質を持っています。有神論を説く教えがより効果的に思う人もいるのですし、そうではない教えがより効果的な場合もあるのです。人間には様々の異なった気質があるからこそ、私たちが慈悲深い人間になるためには異なった宗教や、異なったアプローチが必要です。
ですから、宗教間で教義の違いが見られるとき、いつも私は、その伝統の違いの目的は何なのか、それを問いかけるようにしています。それぞれの宗教は全く同じことを目指しています。それは幸福な人生を獲得するということです。それに関しては何の対立もないのです。
みなさんはこの会議の中で様々な意見に耳を傾けられていることでしょう。聞くことが第一段階です。第二にすべきことは聞いた事柄の意味をよく考え、分析することです。はじめに聞いた事柄を熟考することで、より深い確信が得られるでしょう。そして、第三にその確信を何度も繰り返すことで習熟しなければなりません。そうすれば、最終的にこうした考えがみなさんの人生の一部となります。何か問題に直面した時には、特別な努力をしなくても、こうした考え方が自然とみなさんの心にやって来るはずです。そうすれば程なくして、こうした考え方がみなさんにとって極めて有益なものとなるでしょう。
ツツ大主教
私たち人類にとって、“分かち合うこと”がどうしてこんなに難しいのか、と思うことがあります。神は私たちをそれぞれに全く異なったものとして創造なさいました。その目的とは、誰一人として自分に満足することはできないのだということを分からせるためです。
私がキリスト教徒であってダライ・ラマが仏教徒であることを好ましく思わない人がいるでしょうか。マハトマ・ガンディーがヒンドゥー教徒だからという理由で、神の栄光に陰りが差すことなどありましょうか。あるいはまた、果たして神は次のようなことを仰るでしょうか。「ダライ・ラマは非常に素晴らしい人だ。だが、彼がキリスト教徒でないのは何とも残念なことだ。ダライ・ラマにマハトマ・ガンディー、あなた方を天国に導くことができたらよいのに。可哀想な人達だ。まずあなた方はキリスト教に改宗する必要がある。」
このようなことは全くのナンセンスです。私たちは神があらゆる善の源泉であると信じております。ですから、もしその通りであるとすれば、ダライ・ラマの中にある善も、マハトマ・ガンディーの中にある善も、マザー・テレサの中にある善も、この神聖にして美なる神の一部分なのです。
実際の所、神の偉大さを完全に解き明かすことに成功した宗教は一つとしてありません。なぜならば、宗教とは人間が作ったものに過ぎないからです。私たちは宗教と神を等しいものと考えがちですが、それは違います。これまでに様々な宗教が神の偉大性を理解しようと努めてきましたが、実際に神は、どの宗教の理解も及ばないくらい偉大な存在なのです。
私たちが反アパルトヘイトのために戦っていた頃は、イスラム教のイマーム(導師)と片方の手をつなぎ、もう片方の手はユダヤ教のラビ(指導者)とつないで歩いていたような状態でした。私たちの背後では、ヒンドゥー教の祭司も一緒に歩いてくれました。そして、全員で「我々の教義に基づけば、このアパルトヘイトは悪である」と言ったのです。
私の知る限り、盗みが善であると教える宗教は一つもありません。嘘をつくことが善であると教える宗教も、抑圧することが善であると教える宗教も聞いたことがありません。
ダライ・ラマ法王が仰っている通り、すべての人に価値があるのです。ヒンドゥー教には「汝はそれなり」(tat tvam asi)という教えがあります。これはあなた自身が神であるという大変に力強い教えです。また、キリスト教におきましても、究極的に神は私の中にいて、私は神の中にいるのだと言います。私たちがこのことに気付くことを、神は願っておられるのです。すべての教えに共通するのは、人生の究極的な目的が神的なものにあるということです。あらゆる宗教が具えている最高の側面を目の当たりにすることができたら、素晴らしいと思いませんか?
クー・クラックス・クラン(KKK)のことをキリスト者だと言う人がいるとしたら、それはとんでもない間違いです。彼らは逸脱者なのですから。私たちキリスト者はこのことを断固として言わなければなりません。
ベティ・ウィリアムズ
ダライ・ラマ法王がお話されている間思ったのですが、おそらく私たちの中には仏教も神道もキリスト教も少しずつ存在するのではないでしょうか。そして、それらが一つに合わさることでより善い人間になることができるような気がしてなりません。しかし、もっと現実的なことを考えてみましょう。
何年も前のことですが、アイルランドで英国国教会の尼僧にシスター・アンナさんという方がいました。彼女は私に「宗教的差別のない学校を絶対に開くべきです。」と提言しました。私はその意見に賛成でしたので、「まさにその通りですね。カトリックの子どもたちもプロテスタントの子どもたちも、一緒に教育を施すようにしなければなりません。」と言いました。
宗教的差別のない学校は是非とも必要でしたので、私たちはすぐにそれを実行しようと思いました。まず移動式住宅車を幾つか手に入れてから、私たちの平和運動グループを通じて呼びかけ、この新しいスタイルの学校に子どもたちを入学させる気のある母親たちを募集しました。ですが、そこで一つの問題がありました。子どもたちを私たちの学校へ入れる許可をもらうためには、カトリック教会ともプロテスタント教会とも戦わなければならなかったのです。
しかし最終的に、最も勇敢だったのは母親たちでした。彼女たちは両宗派に抵抗してこう言い放ったのです。「いいですか、私の子どもは、もう少しこの問題について知る必要があるのですよ。」
この学校では如何なる特定の宗教も教えない、これが私たちの計画でした。同時に、あらゆる宗教のことを子どもたちに話して聞かせ、議論しようとしていました。そうすることで、子どもたちは仏教と神道とキリスト教とイスラム教の違いを学び、それぞれの宗教が何を考えているのか、より深く理解することができるのです。つまり、子どもたちに総体的に学ばせるという教育方針です。
学校の開校前夜、私は一晩中祈り、翌日は疲れきった朝を迎えました。私は自分の幼い娘と手をつないで、「どうか子どもたちが来ますように」と心の中で祈りながら待っていました。すると、十一人の子どもたちがやって来ました。六人がカトリックで五人がプロテスタントです。報道陣も来ていましたので、私は「どうか、あともう一人プロテスタントの子どもが来ますように」と祈りました。と申しますのは、カトリックの生徒が多かったなどとメディアに報道されては困るからです。
最後の最後になって、一人の女性が小さな少女を連れて現れました。彼女はこう言いました。「これが正しいか間違っているか私には分かりませんが、あなたにはお分かりでしょう。さあ、こちらが私の子どもです。」私は彼女に訊きました。「大変失礼かと存じますが、宗派はどちらですか。」彼女は言いました。「プロテスタントです。」
私は嬉しさのあまり、肋骨が折れるくらいに、彼女をぎゅっと抱きしめました。
学校を開いた時、私たちは最高の質の教育を施すのだと誓いました。また、カトリックとプロテスタントのどちらにも肩入れするつもりはありませんでした。校長はクィーンズ大学の教授で、本当にわずかのお金で仕事を引き受けてくれました。学校が軌道に乗って少し落ち着くと、今度は他の宗教の人にも学校に来てもらおうと思いました。最初に学校の生徒達にお話をしに来てくれたのは仏教の僧侶でした。小さな男子生徒が私にこう尋ねました。「ウィリアムズ先生、あの人はカトリックの仏教徒なの、プロテスタントの仏教徒なの、どっちなんですか。」
さて、私が心の底から深く信じていることは「行動なき涙は無駄な感傷である」ということです。平和は空から舞い降りてくるものではありません。平和を実現するためには、来る日も来る日もそのために行動しなければならないのです。しかし、私たちが子どもたちに教室の中で他の宗教について教えなければ、子どもたちは決してそのことを理解しないでしょう。
今では嬉しいことに私たちの学校には一二〇〇人もの生徒が在籍しており、これから産まれてくる子どもたちが順番待ちをしているような状況です。そうした子どもたちがこの学校ですべての宗教について学ぶことになります。とても柔軟な美しい小さな心を持っている子どもの内から、こうした教育を行なうのです。子どもたちはまるでスポンジのように色々なことを吸収します。少しの知識を子どもに教えると、彼らは「なぜ」と言ってもっと多くのことを尋ねてくるはずです。そうしたら、たっぷりと時間をかけて子どもに説明しなければなりません。
私たちは今イタリアのバシリカータに平和都市を作っておりますが、そこにはすべての宗教を取り入れるつもりです。ですから、そこにいる子どもたちは「イスラム教徒ならばどう思うか」「キリスト教徒ならばどう思うか」「仏教徒ならばどう思うか」「神道の人ならばど思うのか」といったことを包括的に知ることになります。それはつまり、ここにいる私のことも知り、ダライ・ラマ法王のことも知り、ツツ大主教のことも知り得るような機会を子どもたちに提供することなのです。これこそが、教育システムを全面的に変えていくための唯一の方法ではないかと思います。
世界平和における日本人の役割について
村上和雄
それでは、最後にここで三人の方にお聞きしたいと思います。広島の人々、あるいは日本人はこれから何をやっていくべきだと思われますか。
ダライ・ラマ法王
はっきり言って私にはそんなことは分かりませんよ。
先日ある日本人の作家にお会いして、アメリカの「平和協力隊」についてお話ししたのですが、そういったボランティア活動などをしてみてはどうでしょうか。つまり、和解の精神をもって他所の国々に渡り、自分の技能を提供するわけです。ラテン・アメリカやアフリカといった地域に行き、衛生や教育などの支援活動を行なうのです。アフリカやインドではエイズの問題が深刻化しています。これらの地域ではボランティアによる援助を必要としている人々がいます。
日本はアジアで最も発展した国の一つなのですから、日本のみなさんは他の国々と共有することのできる経験や技能を持っています。日本国内にとどまって不平ばかりを言うのではなく、外国に行って困っている人々を助け、あなた方の善意を届けてあげて下さい。それが私の願いです。
ツツ大主教
日本は何もない廃墟から見事に復興するという素晴らしい模範を世界に示してきました。今やG8の一員である日本は大国です。かつて広島が原爆によって荒廃したように、いま多くの国々が貧困、病気、不均衡な国際経済システムのために荒廃しています。ですから、不条理にも広島に原爆が投下されたというみなさまの経験が、他国を援助したいという情熱につながればよいと思います。現在も、何もない廃虚からの復興を待ち望んでいる国々があるのですから。
また、日本は、多くの国々にとって負担となっている負債を帳消しにするよう先頭に立って訴えるべきです。国際経済のシステムから不均衡を解消する手助けをすることが、日本のみなさまの最も重要な使命ではないかと思います。それに加えまして、日本が不正な戦争を支持しないように希望いたします。イラク戦争は不正であり、非道徳的であると思います。
ベティ・ウィリアムズ
アイルランドには「私は靴を持っていないので、自分のことをとても貧乏な人間だと思っていた。しかし、その後私は足のない人に出会った」という古い言い回しがあります。みなさまも世界に出てみれば、今にも死にかけている子どもたちを眼にすることでしょう。そうした子どもを抱きかかえてみるとします。頭蓋骨の部分が一番重たいですから、その子の小さな頭を支えてやらねばなりません。すると、みなさまを見上げるその子の瞳は「どうしてなの。どうしてこんな目にあわなければならないの。」と訴えかけてくるはずです。
今や日本は世界第二の経済大国です。かつての状況と現在の発展を思うと、これは驚くべきことです。もっと海外に出て下さい。そして、まずは一人の人間を救ってあげて下さい。一人というのは巨大な数です。もしあなたが一人を救うならば、あなたは十人を救うことにもなるのです。なぜなら、その一人は自分の周りにいる他の十人を教育するからです。
平和について語ること、平和のために祈りを捧げること、平和のために行進すること、これらはどれも素晴らしいことです。しかし、四六時中、平和を語り続けてばかりいるならば、それは無意味です。この世界にいるみなさまの兄弟や姉妹の生命を救うために、実際に行動を起こすことが大切です。
ツツ大主教が仰ったように私たちはみな、人類という一つの家族なのです。私たちは「日本人」であるとか「アイルランド人」であるとか「中国人」であるといった観念にしばられてはなりません ——— 残忍冷酷な中国人は例外かも知れませんが ——— まずは一人の人を救って下さい、そうすれば、その一人が他の十人を変えていくことになるでしょう。
人間には物質的なものだけが必要なのではない
村上和雄
日本は敗戦後の荒廃から見事に立ち上がり、経済力をつけました。日本は科学技術の面においても大国になっております。しかし、そうしたことに力を入れすぎた結果、私たちは祈りや大自然に対する敬虔といった目に見えないものの価値を失いつつあるのではないかという意見があります。それについてどう思われるかお聞きしたいと思います。
ダライ・ラマ法王
私が初めて日本を訪れたのは1967年でした。それ以降、日本には近代的な技術や設備が整っているという印象を抱いております。また、日本には神道をはじめとして、自然崇拝の伝統が古くからあります。さらに仏教やその他の伝統もあります。歴史的に見ると仏教が主要な宗教であったように思います。
近代的な設備や科学技術というものは物質的な満足感を与えてくれるものですが、それは心を満たす助けになるものではありませ
ん。それに対して、古来より伝わる宗教の伝統は、私たちに精神的な満足感をもたらすものです。
私たちは決して機械の一部ではないのです。もし私たちの身体が感情を持たない機械であれば、物質的に満たされるだけで充分です。しかしながら私たちは機械ではありません。心を持った生き物なのです。
肉体と精神とに分けて考えてみますと、まず肉体的なレヴェルでは、お金や良い家や食べ物が私たちに満足感をもたらします。一方、精神的なレヴェルにおいて、私たちの心には感情の大きな浮き沈みがあるように思います。これはなぜかと言いますと、私たちには知性が具わっているためです。動物には人間のような感情の浮き沈みはありません。ところが、知性を持つ人間は精神的な乱れが顕著にあらわれます。それらはお金や注射や麻薬では解決できないものです。もちろんこれらは一時的な解決にはなるかも知れませんが、適切な解決策ではありません。心の問題を解決するには、私たちの精神に狙いを定めなければならないのです。
さて、精神的な満足感をもたらすためには二つのアプローチがあります。
一つは我々の常識や経験に基づくアプローチです。つまり、特定の宗教に対する信仰とは全く関係のない方法です。これは科学者の方々にも知っておいて頂きたいのですが、心の平安は私たちの健康を支える上でも極めて重要な要因だと言えます。最近の医学の研究によれば、心の平安は健康をもたらすために何か重要な働きをすると言われています。教育の分野におきましても、心の平安は非常に重要です。
私はこうしたアプローチの仕方を「宗教の枠組みを超えた倫理観」と呼んでおります。つまり、これは特定の宗教に立ち入ることなしに、我々が共通に持っている経験や常識、あるいは科学的な発見に基づいて、精神的なレヴェルでの満足感をもたらす方法なのです。これからの若い世代には、頭脳を発達させることの大切さを教えるだけでなく、やさしさを発達させることの大切さを教えるべきです。
しかも、私たちはそれを祈りや瞑想を通じて育むのではなしに、教育によって育むことができます。なぜなら、人間の知性はやさしさがいかに大切であるかを学ぶ力を持っているからです。若い人々の知性にそれを教えるのが、教育に他なりません。
第二のアプローチは、宗教的な信仰によるものです。つまり、私たちは信仰に基づいてやさしさを育むことができます。これは既にお話ししました通り、様々な宗教の伝統の中に共通して見られる特徴です。
個人的なレベルでもできることは山ほどある
ベティ・ウィリアムズ
最近アメリカの前副大統領アル・ゴアが、『不都合な真実』という映画を発表しました。
これは地球温暖化に関するドキュメンタリーです。みなさんには、私たちの母なる地球で何が起こっているかを真剣に見つめてほしいと思います。なぜなら、私たちは日々この母なる地球を破滅に導くようなことを繰り返しているからです。
たとえば、大気中に排気ガスを排出するといったことを私たちは毎日しています。私は本当は飛行機に乗るのは良くないと思っています。と言いますのは、飛行機から排出される一酸化炭素はオゾン層を破壊するからです。ただし、仕事のためにどこかへ行く場合には、やむを得ず飛行機を利用しなくてはなりませんが。
しかし、個人レヴェルでは私たちにもできることがあります。リサイクルや節約などです。たとえば、歯を磨くとき、水を出しっぱなしにしないで下さい。水は貴重ですから。日本のみなさんにとって水は貴重ではないかもしれませんが、何も持たないアフリカの子どもたちのことを考えてみて下さい。彼らにとって水は貴重です。歯ブラシを水ですすぎ、水を止める。そして、歯を磨き、歯ブラシを水ですすぐ。こうした小さな努力の積み重ねが地球を救うのです。
「小さいことは美しい」というのが私の好きな言葉です。もし私たちの全員が、水を無駄に使わずに歯を磨くといった小さなことをすれば、母なる地球を救うことにつながるのですから。もし可能なら、飛行機に乗らずに他の交通手段を利用するのもよいでしょう。トヨタは環境にやさしい車を製造していますね。母なる地球が少しでも楽に息をすることができるように、役立つことを何かして下さい。そして、映画『不都合な真実』を是非ともご覧になって下さい。これをご覧になれば、母なる地球を救うために何かしなければと痛感することでしょう。
人間は他者のために生きている
ツツ大主教
アパルトヘイト時代に最も不愉快だったことの一つは、外国から来た人々が南アフリカの問題をどのように解決すべきかを私たちに向かって語り出したことでした。今回、みなさまは南アフリカ、インド、アメリカから私どもを広島に招いて、みなさま方が何をするべきか話して欲しいと仰っているわけです。もしみなさまが私の言うことを不愉快に思われたとしても、私にはその気持ちが理解できます。誰でもが分かっていることを今さら申し上げるのはみなさんにとって不愉快かもしれません。しかし、みなさまが何をするべきなのか申し上げたいと存じます。
人々が物質的なものを蓄積することに気を奪われ、精神的な自己を忘れているように見えるとしても、私はあまり心配しておりません。その理由はなぜかと言いますと、物質的なものは、たとえそれがどれだけ素晴らしいものであっても、私たちの精神が求める深い満足感をもたらすことはできないからです。
たとえばスウェーデンでは、国が国民に様々な物質的恩恵を与えており、およそ貧困とは無縁であります。それにも関わらず、自殺が多いことには驚かされます。スウェーデンの人々はこのように物質的には満たされているのに、何かが足りていないように見えるのはなぜでしょうか。その理由は端的に言いますと、私たちが大きなパラドックスを抱えているからです。つまり、私たちは有限な被造物であると同時に、神という無限な存在を志向するように創られているのです。
アウグスティヌスはそのことをこう表現しています。
汝、神は汝自身のために我々を創造した。そして、汝の中に心の安らぎを見出さない限り、我々の心が安らぐことはない。
みなさまも私も、超越者である神のために創造されたのです。神以外のところに満足感を見出そうとする限り、私たちは永遠に満たされることはあり得ません。別の人はそのことを「私たち一人ひとりの中には神の形をした空洞があり、神だけがその空洞を埋めることができるのだ」とも表現します。
私たちは出来る限り努力しなければなりません。とはいえ、神以外のところに深い満足感を見出そうとするならば、私たちは永遠に満たされることはありません。それは私たちが、神によって創られた被造物だからです。私たちは神によって、神に似せて、神のために創られた存在です。ですから、神以外のものは決して私たちを満たすことはないでしょう。