Last Updated: 2022.10.16

勅書:内外のチベットの仏教の伝統に従っている僧・俗のすべての方、そしてチベットとチベット人に関わるすべての方へ重要なお知らせ

2011年9月24日
ダライ・ラマ第14世テンジン・ギャツォ

はじめに

持金剛ダライ・ラマの第14世化身、釈尊の沙門、説法師テンジン・ギャンツォと呼ばれる者より、内外のチベット人をはじめとするチベット伝統仏教の追随者たる僧俗すべて、およびチベット、チベットに関わられるこの世の中のすべての方に申し上げます。

ヒマラヤ地域では、これまで過去に出現した王、大臣、学者、成就者たちの恩をうけ、〔声聞・独覚・菩薩の〕三乗および〔作・行・瑜伽・無上瑜伽の〕四部タントラに集約される完全なる仏勝者の聖教(ことば)と証解(思想)の宝の如き教説と、それに関係するすべての文化が普及し深化してきました。インド、チベット、モンゴルの三国をはじめ、数えきれない多くの人々が、短期的、長期的にも利楽成就の偉大なる業績を有意義に伝えてきました。

こうして勝者の教説を護持・興隆・発展する世代から世代への継承の過程で、学究と成就との両方を兼ね備えた多くの偉大なる人物の<再臨者>を認定するというチベット独自の伝統が伝搬し、それによって教説と衆生はもとより特に僧衆などに対して無量なる利益がもたらされてきました。

15世紀には、一切知者ゲンドゥン・ギャツォが尊者ゲンドゥンドゥプの再化身として確定が得られるという認定が行われ、ガンデンポタン・ラブランの創設以来、歴代のダライ・ラマの化身を認定する制度が確立しました。第3世ソナム・ギャツォは「ダライ・ラマ」と称され、第5世ガワン・ロサン・ギャツォがガンデンポタン政庁を運営し、チベットの宗教・政治の両方の指導者としてきました。これは今日に至るまで600年以上もの間、歴代ダライ・ラマの<再臨者>を決して誤ることなく認定してきたことに依っています。1642年のガンデンポタン政庁の創設以来の、歴代ダライ・ラマがチベットの政治の指導者となるという制度は、369年あまり経ったいま、この世界で普及している民主制という偉大なる体制へと、大いなる歓びと意志をもって、私自身によって既に終焉を迎えました。将来において、ダライ・ラマの化身譜を継続させる必要があるかどうかについては、信仰をもつ民衆たちが決定すべきであるという旨を既に1969年に声明として発表しています。

しかしこの重要事項に関して、再びいまここで指針を明確に表明しておく必要があると思われます。

今後信心をもつ民衆の方々が、次の世代のダライ・ラマを認定したいという希望は強まっているのですし、政権の運営に関わる人々が、政治的目的に従って<再臨者>を認定してしまうという誤ったことを行う恐れが見受けられるのは明らかです。

したがって、次期ダライ・ラマについて、疑問点や策略などが将来的に決して起こる余地のない、明確な指針というものを表明することは、私が身体的、精神的にもいたって健康であるいまこの機会に、必ずして為さねばならないことだと思われます。以下に申し上げる、すべての指針の仔細を充分に理解し、その上で<再臨者>の認定の実際の方法、その基盤にある思想や儀軌などを正しく知っておくことは不可欠なことであると思われますので、以下簡単に述べたいと思います。

前生・後生(転生の存在)

「再臨者」「化身」というこの現実を認めるためには、まずは前生・後生というものを認めるということが前提となります。心を有する生物は、前世から今世へと生まれてきて、今世の身体の所依が消滅したその後に、後続する後生へ赴くのですが、生は前後の流れを途絶えさせることなく存在し続ける、というこのことは、ローカーヤタ学派以外のすべての古代インドの宗教や哲学者たちのなかで〔共通して〕認められているものです。近年の哲学者のなかには、これらを「〔物質として現実に〕見えない」ということだけを理由として「前世・来世は存在しない」と語る人もいます。しかし一方では客観的判断力を伴う科学者のなかには「見えないということだけでは存在しないことは断定できない」とする人もいます。

多くの宗教や哲学が前世・来世というものを認めていることで一致していますが、転生をする主体たる生物とはどのようなものであるのか、どのように転生するか、前世から来世へとどのように結生相続しているのか、といったことの規定については一致しない点も多くあります。「来世は有るけれども、別途、前世というものは無い」と主張する宗教も存在しています。

仏教徒には共通して、生というものは無始であること、業と煩悩を断じて輪廻から解放された解脱を得れば、業と煩悩に支配された再生はないので、業と煩悩による再生には終わりが有るけれども、精神の連続体(心相続)が途切れることはない、と主張するものが大部分です。もし前世や来世が無いと主張すれば、仏教徒における、修行の基盤・道・果という三つに項目分けできる、そのすべての事項が心の連続体の上で少しずつ発展してゆき確実なものとされるべきであるということに矛盾が起きることになってしまうのですし、また論理的に考察しても、我々の住んでいるこの場所にある物質世界(器世間)とそこに輪廻している生物(動世間)のものが、無因無縁から生起するということを承認しなければならなくなるのです。ですので、仏教徒である限り、前世と来世というもの〔の存在〕は必ず認めていなければならないものなのです。

〔次の生を受けた後に〕前世を想い出すことができる者にとって、前世・来世は、知覚不可能なもの(隠匿体・推理によって論証させるもの)ではありません。しかしながら凡夫の大多数は、死有・中有・生有という過程(死んでから別の肉体に生まれ変わるまでの過程)を経る際に、過去の境涯のそのすべてを忘却してしまうのです。ですから彼らにとっては前世・来世は、事実に基づいた論理によって論証しなければならないので「若干知覚不可能なもの」(通常の推理によってその存在が確定可能なもの)〔に分類されるべきもの〕です。これは〔因果関係にあるものは必ず〕同種類のものが先行していること、〔結果に対応している〕質料因が先行していること、〔牛が生まれてすぐに立ち上がることができるといった過去に経験した〕修習が先行していること、経験が先行していること、などといった論証法で纏められています。それらの論理で展開されることの最も重要な点は、「<対象を照らし出して認証するもの>である心(精神)が、それ自身の質料因としての<対象を照らし出して認証するもの>(先行している精神)が無くして、物質が<対象を照らし出して認証するもの>(精神)の質料因とは成り得ない、というここに核心があります。そしてこれは極めて明らかな事実なのです。論理的考察や物理的実験を行ったとしても、新規に<対象を照らし出して認証するもの>の相続が原因なしに成立したり、無関係の結果とは対応していない原因から成立することはあり得ないのであり、またここから微細な精神を断絶させる原因や条件というものは存在していない、ということが類推可能です。現代の心理学者や物理学者や脳科学者のいずれであっても、無因もしくは実体的物質によって精神が生み出されるという状況を直接視認したり、推定することすら不可能です。さらには過去の何世代も前もしくは直前の過去世を想起して、その時の身体的な境涯や場所、近親者などのことを間違うことなく同定できる人は、過去にというだけではなく、現代でも東西の様々な場所で、極めて多く現れているのですし、そういった事例が起こっているというこれらの経験や記憶を狂気であるとするのは、客観的視点による公平な判断ではなく、知覚のみに偏ったものなのです。伝統的なチベットの<再臨者>認定制度は、過去世の境涯を後に想起する経験に基づくという考察方法で正統性がもたらされてきたものです。

再生の方法

識の相続が断絶することなく、今世の身依を捨てた後に、後続する身依に結生相続して生を受ける時、業と煩悩に支配されて再生する場合と、悲と祈願の力によって再生する場合との二つの場合があります。

前者は、無明の力によって積集された識の上に薫習された善悪の業の習気が、臨終時に起こる強い執着などによって発芽し、それが後続の生を誘引し、善趣(天・人)もしくは悪趣(畜生・餓鬼・畜生)の肉体に、〔どこに生まれるのかは全く〕自由のない状態で、生を受けるのです。凡夫たちは、水車で水が上下に運ばれるように自らの意志とは無関係に、生死の輪を流転しているのです。そのような境涯にあるとはいえ、常に日頃から継続して善に励もうとする意志と修習の力で、臨終時に、善業を発芽させ善趣へと生まれるというこの方法は、凡夫でも実行可能なものです。

これに対して〔空性という真実を現観した〕聖者道を得ている菩薩たちは、業と煩悩に支配されて再生することは無いけれども、衆生を対象とした〔この衆生たちを苦しみから逃れさせてやりたいという〕慈悲心の力によって、〔再びこの輪廻に再生して〕利他を実現したいという祈願により、時・場所・両親等を自分の意志で選択して、利他という目的のためだけに生を受けることがあります。これらは悲心と祈願による再生〔と呼ばれるもの〕です。

化身トゥルク」の意味するところ

チベットの伝統で認定している<再臨者>たちのことを「化身トゥルク」と表現して呼んでいます。これは信仰心のあつい人々が敬意を込めた表現をした言葉が伝承されてきたものであると思われます。

一般に「化身」とは、顕教の典籍で仏の三身もしくは四身が説かれる際の身の一項目を直接表現している名称です。あらゆる束縛を受けている人が道へと向かい、福徳と智慧によって心の上にある客塵である煩悩の垢、所知障、およびそれらの習気を断じ、無垢なる心が、一切法を現量で理解するその智慧を「智慧法身」と呼び、そのような心の法性を指して「自性身」と呼びます。これは「自利円満究極身」「法身」です。しかしこの身は成仏した仏たちはお互い認識できますが、それ以外の〔成仏していない〕者(菩薩や凡夫たち)にとっては顕現不可能ですので、利他を実現するための条件として、他者に顕現可能な色身が不可欠となり、そのことが理由となり、〔菩薩の〕地に住している菩薩たちに顕現することが可能であり、色究竟天の所依にいる者たちに対しては、五決定事項を有する究極色身としての「受用身」〔があるの〕と、それが変化した一般の凡夫にも顕現可能な姿で、人や天等の身依に変化して現れた「変化身」というこの二つの身体があります。これらの二つは「利他色身」と表現されます。

化身にもまた、また相好の荘厳を有し特定の場所・時に生まれようとして〔この世に〕降臨するといった〔実際にブッダになる成り方を衆生たちに見せるために活動する〕十二行状を示す、私たちの師である釈尊のような「最勝化身」、芸術作品(巧芸処)となり衆生ら利益の活動をする「巧工化身」、天・人・畜生・水・橋・薬・薬木などに変化し、衆生利益の活動をする「生化身」という三つの「化身」があります。チベットで<再臨者>として認定されている勝れた人物に対して「化身」と呼称する場合には、これらのうちの「生化身」に分類されるものです。もちろん定義通りのブッダの「生化身」そのものである化身ラマも沢山居ることは確実ですが、すべての場合に必ずしも当てはまるわけではありませんので、チベットの「化身」たちには、有学の聖者、資糧道・加行道位にいる凡夫、道にまだ向かってはいない者たちも居ることは言うまでもありません。彼らに対して〔本当のブッダの生化身に〕似たような存在であるという理由で「化身」と呼んでいるのは明瞭です。ジャムヤンケンツェワンポも「先代の化身の示現を引っ込めて、次の者として生を受けるものもいるが、化身の本体を片付けることなく、他の化身たちを変化させる者もいると考えられている」と説かれています。

<再臨者>を認定するということ

ある特定の人物の前の転生を確認して、誰が誰として〔前世で〕生まれていたのか、ということを明確に指摘する仕方は、ブッダ在世の時から存在しています。如来が業果の規定を教示する際に、どのような生において如何なる業を積んだことによって、現在のこの結果を味わうことになっている、と〔因果応報の〕経緯を詳細に〔弟子たちに〕教示する場面は、四部阿含の律・本生譚・賢愚経・百縁経をはじめとする、殆どの経典やタントラで数えきれない程見受けられます。釈尊の涅槃の後にそれに続いて出現なされたインドの学者や成就者たちの行状伝にも、その方の転世者がどこでどの身として生まれたのか、ということについての非常に多くの記述があります。とはいえ、チベットの伝統のように再臨者を認定することで転世者のその代数を数えるという習慣はありませんでした。

チベットにおける再臨者認定制度

チベットに仏教が拡がる前のボン教でも前世・来世の存在は認められていました。仏教が普及して以降は、チベットの知識人のすべてが前世・来世の存在を確信し、仏法を護持した多くの偉大なる方々がその転世譜として過去にどのような形で生を受け衆生済度をなされていたのかということの仔細を追求したり、信仰により再臨を祈願するという習慣が普及することとなったのです。『マニカンブム』や『カータン五部』などの古代のチベット文献や11世紀に無比なる大ジョウォ・アティシャがチベットに滞在されていた時の問答である『宝飾の鬘』、〔アティシャの弟子のドムトンパの著した〕『カダム子法』等、〔非常に古くから〕聖観音菩薩の転世譜を示す権威ある典籍が多く著されてきました。しかし現在有名で行われているこの化身認定制度は、13世紀初頭にカルマパクシを弟子たちが、カルマパ・ドゥースンケンパの予言に合致して再び化身したものとして認定することで、信仰したことから起こったものとして知られています。その時より現在に至るまで約800年間、歴代17代のカルマパが出現され、15世紀には、カンドー・チューキ・ドンメの再臨者たるクンガーサンモを認定したことから現在までサムディン・ドルジェ・パクモの10数代の転世が現れたのであり、チベットでは再臨者として認定されてきた化身には、出家者、密教行者、男性、女性といった様々な人々がいます。この制度は他のチベットの仏教の伝統宗派や〔ボン教などの〕他の宗教にも拡がることとなり、現代ではサキャ派、ゲルク派、カギュ派、ジョナン派、ボン教徒たちの間で化身認定をした化身ラマたちが教法の発展に貢献してきたことや、そのなかには教えを衰退させてしまった者さえもいたことは、みなさんのご存知の通りの状況です。

ジェ・ツォンカパの直弟子である一切知者ゲンドゥン・ドゥッパがツァンのタシルンポ僧院を建立されて、後進を指導なされ、1474年に84歳でお隠れになられ、その時すぐには、その再臨者の認定をしなくてはならないと求めるものは居ませんでしたが、1476年にツァンのタナクに生まれた子どもサンゲー・チューペルが前世の境涯を想起する不思議であるが嘘ではないものいいを多くなすということが起こったので、それを認定する以外にはないということになり、それ以降現在に至るまでダライ・ラマの転世者は、ガンデンポタン・ラブランとガンデンポタン政庁が正しく認定すべきであるという制度がはじまったのです。

再臨者認定の方法

再臨者の認定制度が普及して以降、その方法もまた次第に発展しました。それらのなかでも伝統的慣習として最も主要なものは、先代の遺言、指針、同定するための記号を示されたもの、それぞれの再臨者が幼少期に過去世を想起して正しい内容の話ができることと、先代が使用していた物品を確認すること、先代の周囲の人々を確認させることの二つが主要なものとして扱われた上で、正しく勝れた人物のお心でその真偽を諮っていただくこと、世間の護法尊を神下しする神託官に予言の伺いをたてて、〔パルデン・ラモが棲んでいると謂われている〕ラモ・ラツォ等の護法尊の聖なる湖などで湖面を見るなどの様々な多くの方法があるのであり、候補者が一人以上多数現れてしまい真偽の選定をすることが困難になった時には、仏像などの所依の御前に事実を審らかにして、籤引きを行って決定するという習慣も起こったのです。

未涅槃化身

一般的に「再臨者」というのは、先代の者が涅槃した後に、その同一人物が再び人間の身体に生まれるということが必要とされていますので、凡夫には「非涅槃化身」(先代の者が涅槃する前、つまり身体的に存在している間に、次の化身を出現させること)ということは起こりえません。しかしながら地に住している聖者で、同一の時に、百や千もの多くの身体へと変化することが可能である者の場合には、「未涅槃化身」というものは必ず起こり得るものです。

とはいえ、チベットの化身認定制度では、心相続が同一である化身、業や祈願が関係している化身、任命もしくは加持された化身などという様々な化身があります。化身が降臨しなくてはならないその目的の中心は、先代の身体の寿命の期間中に、教説と衆生のための仕事にやり残してしまうような残務があり、それらを受け継いで実現しなければいけない、というこのことを目的としているのです。凡夫のラマであれば、相続を同じくする再臨者の代わりに、自らと使命と祈願に関係のある浄業の別の人物を化身として認定したり、あるいはまた自分の弟子や他の若い世代の者を宗教的に任命し、化身として認定することも起こり得るのです。ですから凡夫の場合にもまた、心相続が同一ではない再臨者である「未涅槃化身」というのは起こり得るのであり、また先代の一つの心相続のものに、身口意の化身などの多くの再臨が同時に降臨することもまた有り得るのです。最近有名な「未涅槃化身」にも、ドゥージョム・ジクデル・イェシェー・ドルジェとチョゲー・ティチェン・ガワン・ケンラプなど沢山いるわけです。

金瓶掣籤きんべいせいせん

世の中が衰退して腐敗してゆくと同時に、再臨者として認定された大ラマも増加し、なかには政治に関係していたり、不正な策略によって認定された偽物も増加していくことで、宗教界にも大きな危険が起こることとなりました。そうした状況下で1791年から1793年まで、チベットとグルカの紛争が起こりました。その時にチベット政府は満州軍に支援を受ける必要がありました。グルカ軍を最終的に駆逐した後に満州朝(清朝)の派遣軍司令官たちは、チベット政府の行政施行力を強化するために29条の約定を発布して、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマ、それ以外のフトクト(大ラマ)たちの転世者は金瓶掣籤にて決定しなければならないという提案を発布したのです。それにもとづいてダライ・ラマとパンチェン・ラマのそれぞれと、その他のラマたちの時に、金瓶掣籤を行っただけではなく、金瓶掣籤についての儀軌もまたダライ・ラマ・ジャンペル・ギャツォが御製なされました。このような制度が導入されたとはいえ後に、ダライ・ラマ9世、13世、そして私14世の認定の時には金瓶の籤引きは実際にはおこなわれなかったのですが、あくまでも満州の顔をたてるために、金瓶の籤引きを行うという旨の広報はしていました。実際に金瓶掣籤を行ったのは、ダライ・ラマ11世と12世の時だけしかなかったのですし、12世の時にも金瓶掣籤を行うよりも前に候補が確定していたので、金瓶掣籤で認定を行ったのは〔11生の時の〕一回だけしかありませんでした。同様に歴代のパンチェンラマの場合でも、8世、9世の時にしか金瓶掣籤は行っておらず、この方法というのは満州の政治的な圧力に過ぎず、チベット人が信仰すべき宗教的方法としてではなかったのです。しかし公明正大に実行するのならば、これは〔以前からある〕玉を使った籤引きの方法の一種として数えることもできるとは思われます。

1880年のダライ・ラマ13世の再臨者の認定の際、チベットと清朝との供養処ー施主の関係はまだ途切れておらず、若干の清朝の支配力の影響下に有った時でさえも、パンチェン・ラマ第8世、ネーチュン、サムイェー僧院の護法尊の授記とラモラツォの観湖法などの様々な方法を通じて、誤りのない正当な再臨者として認定され、金瓶掣籤は必要とされないで認定が行われました。このことは13世ご自身の『水猿勅語』(13世のご遺言)に、「私が最初に伝統的な金瓶掣籤を必要とされずに予言の検証をし、その意味を明らかにして政治と宗教の最高指導者であるダライ・ラマの後継者として検討され認定され即位したその時から」とおっしゃっていることからも、はっきりと理解できるのです。

1931年に私自身がダライ・ラマ第14世として認定される際には、もはや既にチベットと中国との供養処ー施主の関係は途絶えていたので、金瓶掣籤は不要であり、話題にあがることもありませんでした。天であるラマの授記とラモラツォの観湖法などの適切な認定方法をチベットの摂政とチベットの議会全体で採用決定し、中国側からの介入の余地はまったく無かったことはよく知られています。しかし後に中華民国の何人かの関係者が考えて思い出したかのように「金瓶掣籤の過程は免除した」とか私の即位式を「呉忠信が取り仕切った」という、虚偽の記事を新聞で報道しました。しかしそのような事実はありませんでしたし、それが事実ではないことは、中華人民共和国が偉大な重要人物と考える全人代の前副議長ガポー・ガワン・ジクメーが、1989年7月31日の西蔵自治区第五回人民代表者大会第二次会の際に、関連文書の証拠をあげて詳しく説明をし「国民党が述べていた虚りを踏襲して、私たち共産党が後に引き続き嘘をつかなれければならないことに一体どんな意味があるのでしょうか」と強調していることからも明らかでしょう。

悪質な謀略を防ぐために

これまで時には、裕福なラブラン(化身ラマの座処)の財務担当者が、仏法によって心を統御できないことから、目の前の現象に執着してしまい、血迷ってしまったことから、<再臨者>を認定してしまうということが有りました。

これは教説、僧伽および社会を害するもので、満州時代より中国の時の権力者のなかにはチベットやモンゴルの問題に介入したり、仏法を悪用したり、化身ラマの問題を政治的カードとして繰り返し悪用する者もありました。現代の中華人民共和国の独裁者たちも、自身は無宗教であり、共産主義者であると標榜しつつ宗教に介入して「愛国愛教」キャンペーンを行ったり、2007年9月1日に施行された第5号令「蔵伝仏教活仏転世管理法」などといったものを制定するといったことを行っています。これらは我々から見れば何とも質の悪いお笑いぐさにしか過ぎないのですが、チベット人の独自のこうした良き伝統を根絶させようとする悪巧みをはかり、化身ラマの再臨者の認定には相応しくない様々な手段を追加し、すべてのチベット民族にとって決して堪えることができないような傷口を創りだしつつあるのです。

彼らはそれだけではなく、私がはやく死ねばいいと待ち望み、ダライ・ラマ15世を彼らの思い通りに認定することで、チベットとチベットの伝統仏教に従う人々はもちろんのこと、国際社会の民衆を詐り騙してしまおうとしています。こうした謀略的な企みをもっていることは、近年続くいくつかの法律や関係省令などの査定状況からも明らかです。教説と衆生全体の短期的・長期的な善資を鑑みて、そうした悪しき政策が現実化してしまう前に未然に防止することは、私自身の急務ですから、私はこの声明を発表しているのです。

次期ダライ・ラマについて

上記に述べたように、再び化身として生を受けるということは、その前代の者が、自らの意志によって、もしくは最後に再び福徳と祈願の力によって生を受ける必要があるということなのです。したがってそれがどのような地にどのように生まれるのか、どのような手段によってどうやって認定すればいいのか、というこれらのことは〔次に〕生を受けようとしているその人物だけに独自の権限があるのであって、他の何人たりとも、これを支配したり、強制したり、自らの思惑通りに勝手に操ろうとする余地は一切ありません。そしてこれが事実なのです。

特に化身について規定はもちろんのこと、前世・来世の存在すらも認めない政治権力者たちが、ラマの化身転世者、さらにはダライ・ラマとパンチェン・ラマの化身認定に強制的に介入するのは極めて不相応なことで、彼ら自らの政治信条をも詐るような恥知らずの虚言的謀略に過ぎません。このことは誰の眼にも歴然であり、もしもたとえそのようなことが起こったとしても、それに対してチベット民族およびチベットの伝統仏教に従う国際社会のすべてがそれを受け入れたり、承認することは決してないのです。

私自身は、自分がジェ・ゲンドゥンドゥプの御歳くらいになった時に、伝統仏教の大ラマ、チベット人、さらには関係信者の人々の間で意見を集約させ、ダライ・ラマの転世を継続する必要があるかどうかを再度詳細に検討してもらう予定です。もしもダライ・ラマの転世の継続の必要性があり、第15世という再臨者を認定しなくてはならない時期が来た場合、その任務の責任は主としてダライ・ラマのラブランであるガンデンポタン基金財団の役員たちにあります。

彼らがチベットの伝統仏教宗派のリーダーである高僧たちと、歴代のダライ・ラマに代々仕えると誓ってきた護法尊たちに状況に応じて指導を受けて、議論の余地のない化身認定を伝統に則って行わなければならないのです。そしてそのため私の側からもまたそれらの方針を明確に指示する文書を残しておきたいと思っています。

このように正しく論争の余地のなく認定される化身以外には、それとは別に政治的必要性を満たそうとする目的で、たとえ中華人民共和国の権力者などの如何なる政治権力を有する人物が、次の化身を選出することがあったとしても、その人物をダライ・ラマの化身と認定する必要はありませんし、そしてそれを信仰して受け入れる必要はないのです。このことを心に留めておいていただきたいと思います。

ダラムサラにて、チベット暦2138年第17ラブチュン鉄卯歳7月27日、西暦2011年9月24日記す。善を願って。


  • 翻訳・文責:野村正次郎(弊会代表理事)
  • 声明のチベット語原文はこちら

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