仏教を実践するための暇とゆとりに恵まれた有暇具足の人身を得ていても、この生をいま活用しなければ、ここに永遠に留ることができるようなものではない。すべては移ろいゆき、無常であり、一瞬たりとも時の流れを止めることなどできないし、時の流れを逆転してやりなおすことなどできない。
マンゴー(菴摩羅)の果実が獲れるマンゴーの樹はウルシ科に属する樹木である。ウルシ科の樹木には、マンゴーやピスタチオやカシューナッツなどの食用の果実をつけるものもあるが、ツタウルシやヤマハゼなど食用では使えない種類のものの方が多くある。ウルシ科の植物は、通常その樹液にカテコールと呼ばれる成分が含まれ、これに触れると皮膚炎の原因となり、ウルシ科は、基本的にはアレルギーの原因となる。
この世界のなかには最勝なる山であるマラヤ山(摩羅耶山・牛頭山)という山があり、その麓には、純白色をした栴檀の樹が生えており、この栴檀のことを「牛頭栴檀」というが、その樹は根も芽も葉も茎もすべて、甘美な香りを漂わせている。この樹木の香りは、心を落ち着かせ、病を癒す効果があり、樹木のなかでも最も勝れた樹木である。
棘があるものや毒がある樹木など 必要ないのにこの地上には溢れている ゆとりがなく悪趣へ生まれた者は この大地の砂の数のように無数にいる 6 私たちはいま仏道修行をするのに相応しいゆとりのある環境に生まれている。このゆとりは八つに分類できるものであり、それを総合すると「八有暇」とい […]
きちんとした指導者につき、ちゃんと学ぶためには、私たち弟子の方もよい学生、よい弟子であろうとすることが大切である。正しい弟子であるためには、偏見や主義・主張に陥らず、いつも公明正大で、客観的態度をもっていることであり、指導者たちが教えてくれることを自分で実践する時に正しい判断が行える判断力、そして指導者が教えてくれた助言に基づいて、その内容をできるだけ忠実に実践しようとする探究心や努力が必要である。
何かを学ぶため、きちんとした指導者につき、ちゃんと学ぶためには、私たち弟子の方もよい学生、よい弟子であろうとすることが大切である。
カダム派の祖ポトワは、これまでずっと地獄や畜生などで迷い続けてきた人間が、いきなりこの人間の境涯に生まれてきて、その生まれたばかりの状態では、これからどうしたらよいのか分からないのは当然である、と説いている。
ゲルク派の共通試験はセラ、デプン、ガンデンというゲルク派の総本山で17年間の教育課程を修了した学僧たちが、さらに学問を極めるため最高学位である「ゲシェー・ラランパ」を目指して6年間それまで17年以上各総本山で学んできたことを再度もう一度学びなおし、それまでそれぞれ自分の所属する僧 […]
ゲルク派国際連合会(ゲルク派本部/རྒྱལ་སྤྱིའི་དགེ་ལྡན་ལྷན་ཚོགས།)の決議により、毎年各僧院で行われる夏安居の期間で、各学堂の聖典のの教授陣により、各学堂の沙弥・比丘に対して、ジェ・ツォンカパの沙弥戒・比丘戒に関する著作に基づき、沙弥と比丘が正しく戒律を […]
深い森のなかを歩いていくと、少しだけ開けた場所へと辿りつく。そこはよく陽が当たる場所であり、見渡しも良く、空の面積も広い。木漏れ日だけしか浴びていない時には感じられなかった清々しさもあり、古く朽ちた大木が横たわっていれば、すこしそこに座ってみたいという気持ちになるものである。
深い森のなかを歩いていくと巨大な樹に出逢うことがある。砂漠化した荒野を歩いていくと巨大な樹に出逢うことがある。最初は遠くからそれを見かけただけであるが、不思議にその樹に引き寄せられていく。
ある基体が有るならばその有の証解、 無い場合にはその無の証解のすべて、 その対立とその別異者のそのすべて、 否定基体をもつ法である場合には、 所遍・関係者・依存者のすべて、 事物であれば因・果のそのすべて、 それがそれ自体たる諸法である場合は その抽象との対立者は残りなくすべて、 […]
この実体法というものとそれに準ずるものは、 汝は汝であり、汝でないものは汝ではない。 自体である抽象法とそれに準ずるものは、 汝は汝であり、汝でないものも汝である。 自体でない抽象法とそれに準ずるものとは、 汝は汝でなく、汝ではなくとも汝ではない、 このような特殊法が継続するもの […]
確定してゆかねばならない規定は 実体法と抽象法 対立者と関係者 普遍と特殊 定義と所定義 因果 有と無の証解 肯定・否定の反定 肯定否定遍充、否定基体 計算法 先後拘束法 循環式の十三項目である。 本書は、有法という分類の基盤となるものが何であり、それを分類すれば、有為法・無為法 […]
不善の代表的なものは、十善の逆の業である十不善であるが、殺生・偸盗・邪婬という三つの身不善業すなわち悪しき行動、妄語・綺語・悪口・両舌、の四つの語不善業、すなわち悪しき言動、慳貪・瞋恚・邪見の三つの意不善業、すなわち悪しき考えである。これがまずは悪の代表者である。
意に沿った結果をもたらすことを明確に予告可能なものを善というが、具体的に善であると言われるものにどのようなものがあるのか、ということをここでは列挙している。
善悪は、誰にとっても日常の最大の関心事ではあるし、誰しもが善悪とはこういうものだという固定観念をもっている。しかし仏教の教義では、善悪はどうやって区別するのか、そもそも何を善として、何を不善すなわち悪として、何を善でも悪でもない中立的なものとするのか、ということを明確に答えられる人はそれほど多くはない。
デプン・ゴマン学堂に設置してあるゴマン・スクールでは、近隣の公立学校の学生を受け入れて1ヶ月程度のスクーリングが行われました。通常の学校では深く学ぶことができない、問答のやり方から仏教の教義まで、チベット人としてチベットの独自の宗教と宗教文化を次世代の人たちに伝えるために、近隣の […]
チベット暦の4月16日より5月6日までは、デプン・ゴマン学堂の夏初法会(དབྱར་ཆོས་དང་པོའམ་ཐུག་ཆོས་གྲྭ་)となり20日間の問答法苑が開催されます。今年は西暦6月15日から7月5日まで開催されました。 デプン・ゴマン学堂ではチベットの暦に基づいて、伝統的に […]
仏門へと入門し、自分自身でそれを実践しようと三世の如来や阿闍梨たちの前で一生守り抜くと誓い、清浄で正統なる法統を授かったにも関わらず、約束を違えることを恥ずかしいとも思わずに、煩悩に塗れた心でその戒律を破ろうとしてしまう。