2018.12.05

ゴマン学堂の歴史

DrepungGomangDawn

デプン大僧院の創立

デプン大僧院は正式名称を「パルデン・デー・カル・プンパ」(吉祥なる、白米の蓄積所)といい、仏陀が『時輪根本タントラ』(カーラチャクラタントラ)を説かれた場所シュリー・ダーニヤカタカ(現在のインド・アマラヴァティー)の仏塔のチベット語訳に因んで名付けられています。

チベット仏教最大宗派のゲルク派の宗祖ジェ・ツォンカパは、前世で少年であったとき仏陀に101個の水晶の珠数を奉納し、そのお返しに龍王が仏陀に贈った法螺貝(ほらがい)を授かったといわれています。仏陀はこのとき「法螺貝は山の中に隠しておきなさい」とジェ・ツォンカパに伝え、仏陀の弟子であるモッガラーナに託しました。彼は猿の姿に化け、この法螺貝をチベットの地に埋めました。

仏陀は「この法螺貝が再び地上に現れたとき、仏教の教えが広まり人々は救われるでしょう」と予言されました。それから長年が経ち、1409年にジェ・ツォンカパはガンデン大僧院を、現在のラサから約50km東にある山腹に創立しました。その翌年、この法螺貝はガンデン僧院の後方のドク山頂から発掘されたのです。ジェ・ツォンカパはたくさんの仏典に精通していた直弟子、ジャムヤンチュージェ・タシーパルデンにこの法螺貝を与えました。ジャムヤン・チュージェは1416年に現在のラサ中心部から西郊の土地にデプン大僧院を創立し、ジェ・ツォンカパによって創立の法要が行われました。

ジャムヤンチュージェはジェ・ツォンカパの命を受け、デプン大僧院の初代座主に就任し、インド仏典の講義や指導を開始しました。またデプン大僧院の創立後すぐ、ジェ・ツォンカパの直弟子の一人であるドゥンタクパ・リンチェンをはじめとする七人の僧侶たちも、弟子たちにインド仏教聖典や密教聖典の講義を始めました。この七人の講師たちをもとに、デプン大僧院の中に最初にゴマン学堂が創立され、その後ロセリン、デヤン、ドゥルワ、ガクパ、ゲーパ、シャクコルという七つの学堂が順に創立されました。これらの学堂は後に、ゴマン学堂、ロセルリン学堂、デヤン学堂、ガクパ学堂の四つの学堂に統合されました。ゴマン学堂の初代の学堂長には、ドゥンタクパ・リンチェンが就任しました。

タシ・ゴマン学堂の創立

ジャムヤン・チュージェはジェ・ツォンカパの命を受け、デプン大僧院の初代座主に就任し、インド仏典の講義や指導を開始しました。またデプン大僧院の創立後すぐ、ジェ・ツォンカパの直弟子の一人であるドゥンタクパ・リンチェンをはじめとする七人の僧侶たちも、弟子たちにインド仏教聖典や密教聖典の講義を始めました。この七人の講師たちをもとに、デプン大僧院の中に最初にゴマン学堂が創立され、その後ロセルリン、デヤン、ドゥルワ、ガクパ、ゲーパ、シャクコルという七つの学堂が順に創立されました。これらの学堂は後に、ゴマン学堂、ロセリン学堂、デヤン学堂、ガクパ学堂の四つの学堂に統合されました。ゴマン学堂の初代の学堂長には、ドゥンタクパ・リンチェンが就任しました。

ゴマン学堂の正式名称は「タシ・ゴマン・ダツァン」(吉祥多門僧院)と言います。「タシ」(吉祥)はゲルク派で最初に成立した学堂であるので「めでたい」という意味を込めて、「ゴマン」(多門)は「明晰な論理によって仏典の多くの門が開かれている場所」という意味を込めて名付けられています。

この学堂は、多くの学者を世に送り出したことで有名です。そのなかでも特に内外で有名なのは、ダライ・ラマ法王です。ダライ・ラマとは、デプン大僧院の中にあるパクモドゥ王朝が寄進した「ガンデン・ポタン宮殿」に当初長として居住していたラマ(高僧)のことです。ダライ・ラマ五世ガワン・ロサン・ギャツォのとき、チベット全土が統治され、世界遺産としても有名なポタラ宮殿(現在のラサ・マルポリの丘)へと移り住みました。そして「ガンデン・ポタン政庁」を樹立し、それ以降チベットはこの政庁によって統治されました。現在の亡命チベット中央行政府も、このガンデン・ポタン政庁の延長線にあります。

ゴマン学堂は学問的にも秀でており、クンケン・ジャムヤンシェーパ、チャンキャ・リンポチェ、グンタン・リンポチェの三つの化身ラマの系譜は特に有名です。

ダライ・ラマ五世の弟子でもあった希代の大学者、クンケン・ジャムヤンシェーパ1世ガワン・ツォンドゥーは、アムド(現在のチベット地方区分で東北にあたる地域)に生まれ、上京してゴマン学堂に入り学業を修め、それまでゴマン学堂で使用されていた教科書にかわる新しい教科書を整備しました。彼はインド哲学やインド仏教哲学に対する研究を集大成し、『学説規定大論』(トゥプター・チェンモ)という書物を残しました。彼の教科書は、チベット、中国、モンゴル、ロシアの仏教寺院における教義研究の教科書として使用され、西欧社会のなかでインド・チベットの仏教研究がはじまった時から今日に至るまで、その礎となっています。

ジャムヤンシェーパは学者として高名であるばかりではなく、仏教の興隆にも大きな貢献をしました。彼は故郷アムドに、ゴマン学堂を模した「ラブラン・タシキル大僧院」を建立しました(現在の中国甘粛省)。それ以後、ゴマン学堂とタシキル大僧院は兄弟のような関係となり、東チベット、中国、モンゴルそしてロシアのブリヤート、カルムイック地方に到るまで、チベット仏教の東北への布教の大本山となったのです。

1957年の時点で、ラブラン・タシキル大僧院は138の末寺を有し、僧院には4000人近くの僧侶がいました。1959年のチベットの敗北以前にチベット仏教を支えていたモンゴル人やロシア人のほとんどは、クンケン・ジャムヤンシェーパにならってゴマン学堂とギュメー密教学堂、ギュトゥー密教学堂において教育を受け、そこでチベット仏教の博士号であるゲシェー位を取得するようになりました。ラサへ留学しない、もしくはできない学僧たちは、ラブラン・タシキル大僧院を別格本山として各末寺から集まるようになったのです。

チャンキャ・リンポチェ1世はクンケン・ジャムヤンシェーパの師匠であり、2世のロルペードルジェはクンケン・ジャムヤンシェーパの弟子です。2世ロルペードルジェは中国・清王朝の第六皇帝である乾隆帝の帰依を受け、モンゴル仏教の指導者である「掌印大ラマ」の称号を得ました。彼は北京にラブラン・タシキル大僧院を模した「雍和宮」(ようわきゅう)を建立し、『チベット大蔵経』のモンゴル語訳や満州語訳を行ったことなどで有名です。当代のチャンキャ・リンポチェ=テンジン・トンユー・イシ・ギャンツォ師は、現在もゴマン学堂で学問修業に励んでいらっしゃいます。

その後間もなくこのジャムヤンチュージェ法師の御業績によって、ありとあらゆる場所から、解脱を追求する仏弟子達が群がり、それは蓮華の咲く湖畔に雁の群れるが如く、自然と集ってきました。僧院全体のラマ、そして僧院長にはジャムヤンチュージェ御自身が就任し、講師・阿闍梨としてはドゥンタクパ・リンチェン(དུང་གྲགས་པ་རིན་ཆེན་)が就任しました。

それ以外にも大学者レクデン等をはじめ七人の講師・律師が弟子達を指導なさっていました。これに基づき最初にゴマン学堂が成立し、その後、ロセルリン(བློ་གསལ་གླིང་)、デヤン(བདེ་ཡངས་)、ドゥルワ(འདུལ་བ་)、ガクパ(སྔགས་པ་)、ゲーパ(རྒྱས་པ་)、シャクコル(ཤག་སྐོར་)という学堂が順にできていきました。このような学堂が創立されたことにより、戒律や仏典の解説、さらには密教の修行など仏教のあらゆる部門を修養する場所として、「パルデン・デプン僧院」という名称はチベット全土のみに留まらず、あらゆる場所に名高きものとなったのです。

1959年以前のゲルク派はチベット・中国・モンゴルで最大勢力となっただけではなく、ゲルク派の本山はニンマ派やカギュ派など他宗派の転生者の基礎教育機関としての役割も果たしてきました。しかし、1959年のチベットの敗北に伴い、約60名の僧侶たちがインドに亡命することを余儀なくされました。その後、80年代になってから毎年100~250名もの亡命チベット人難民たちがインドに押しよせています。

「タシゴマン」の名称の意味

過去の偉大なる方々による伝承によると、本学堂の「タシ・ゴマン・ダツァン」(吉祥なる多門の僧院 བཀྲ་ཤིས་སྒོ་མང་གྲྭ་ཚང་)という名称で、まず最初に「タシ」(吉祥)とありますが、これは「他の学堂よりも先に創立された点で吉祥である」という意味であり、他の学堂が本学堂から分派して成立したことを証明しています。「ゴマン」(多門)とは、「明晰な無垢なる正理によりインド・チベットのあらゆる仏典の難解かつ重要な箇所の数千もの多き門を開示する場所」という意味です。現在のチベット亡命政府がセラ・デプン・ガンデンというゲルク派三大学問僧院をインドに復興した際に、まず最初にゴマン学堂を復興したのもまさにこうした理由からでしょう。吉祥なる四部の円満が産み出される入口であり、かつ数千の多き門を開く場所、そのようなものとしてタシ・ゴマン学堂は呼ばれています。

本学堂は偉大なるジャムヤンチュージェ・タシーパルデンにより、第七ラプチュン火猿年、西暦1416年に建立されました。初代学堂長は、講義を行う律師であり、ジェ・ツォンカパ大師の直接の弟子であり、多くの教説に通暁した八人の持法者のなかの一人である、チャンリン・ドゥンタクパ・リンチェン(བྱང་གླིང་གྲགས་པ་རིན་ཆེན་)です。


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