2015年4月5日、ロイヤルパークホテルにてGOMANG ACADEMY OPEN SYMPOSIUM 2015「伝法の未来を考える」と題して、ダライ・ラマ法王14世テンジン・ギャツォ猊下をお迎えし、公開シンポジウムが行われました。日本国内のチベット研究者・学生100名、スポンサー、在日チベット人ゲスト150名ほどの小規模な学術交流会議でありましたが、極めて内容の濃い充実したものとなりました。まずはここでは前半の内容をご紹介します。
まずは、後援をいただいた日本チベット学会より長野泰彦会長より開会のごあいさつをいただきました。
長野先生によれば、日本で最初にチベットの存在が知られたのは、753年の唐の朝廷にて遣唐副使がチベットの存在をはじめて知ったこと、その後19世紀に小栗栖香頂はトンカルフトクトと五台山で交流を結び、20世紀初頭には河口慧海をはじめとする3名の、第13世ダライ・ラマ法王の援助をうけ、多くのチベット語文献が日本にもたらされ、1954年には世界でも先駆けて「日本西蔵学会」が設立され、その後1961年以降は東洋文庫がチベット研究の拠点となり、チベット人研究者を招聘し、共同研究が開始され、多くの研究者や学生がそれに関わることによってチベット学の研究を志してきたことが紹介されました
チベット仏教研究の過去と未来/福田洋一
まずは、GOMANG ACADEMYの研究リーダーである福田洋一教授から「チベット仏教研究の過去と未来」と題して、東洋文庫から現在のGOMANG ACADEMYに至るまでの共同研究活動の報告が行われました。
東洋文庫では、1901年に日本人で初めてラサに到達した河口慧海 (1866–1945) がチベットから招来した文献を寄贈し、蔵和辞典編纂室を設けて辞書編纂プロジェクトが開始し、1913年から1923年までセラ寺で修行しゲシェ位を授かった多田等観 (1890–1967) が、1956年から東洋文庫のチベット研究室長となり、多田等観師と、後にチベット学会会長および東洋文庫理事長になる北村甫先生が猊下に人選をお願いするためにダラムサラを訪れた。1961年、ゴル寺の化身僧ソナム・ギャツォ師、ニンマ派のケツンサンポ師、貴族の娘ツェリンドルマさんが来日し、東洋文庫において「チベット人との共同研究」が始まった。その後もチベット人研究員を招聘し、最後は1979年にゴマン学堂長であったケンスル・リンポチェ・テンパ・ゲルツェン師をお招きし、前後15年の間研究指導にあたられた。
ケンスル・リンポチェとともに、『翻訳名義大集 (bye brag tu rtogs par byed pa chen po)』、『正しい認識の論理の宝庫(リクテル)』の訳注、トゥケンの『チベット仏教宗派史』、また『西蔵仏教基本文献』のシリーズを共同研究成果として発表することができた。また福田先生は、ケンスル・リンポチェによる論理学や中観思想についての教えにもとづき、その後も仏教論理学とツォンカパの中観思想を研究を続けており、大谷大学に移ってからも、様々なプロジェクトを主宰している。
福田先生はまた、奥様の石濱裕美子博士とともに、ツォンカパの伝記の翻訳研究『聖ツォンカパ伝』(2007) を刊行し、近年ではダラムサラのチベット政府教育庁 (bod gzhung shes rig las khungs) が発行している中学生用のチベット文化の教科書 rgyal rabs chos ‘byung dang rigs lam nang chos (2002) の共訳『チベットの歴史と宗教』(2012) を刊行した。日本のチベット仏教研究の特徴は、インド仏教研究の長い伝統を踏まえ、その上でチベット仏教を研究するところにある。日本におけるインド仏教研究の蓄積は非常に大きい。これを活かしつつ、チベット仏教がインド仏教から何を、どのように受け継ぎ、またどのように変容したかを明らかにすることができる点に特徴があり、GOMANG ACADEMYにおける研究は、そのような研究の現状を踏まえたものになっていくものと期待している、との報告が行われた。
ダライ・ラマ法王からは、長野泰彦先生そして福田洋一先生の研究報告に対して「そもそも言語的な問題が大きいなか、こうした精密な研究をこれまで行ってきたことは素晴らしいことであり、自分だったらそんな風にはできないだろう」とジョークをまじえてお二人の研究報告のチベット語文を静かに読みながら聞き入っておられた。
中観思想研究の最前線/斉藤 明
日本印度学仏教学会の前会長で東京大学でインド学仏教学を教えておられる斉藤明先生からは「中観思想の最前線」と題して、先生が関わってきたプロジェクトについてご紹介をいただきました。
『空と中観』(シリーズ大乗仏教・春秋社)における思想の比較研究がおこなれたこと、『中論註・ブッダパーリタ註』『正理六十頌如理論』および註、『明句論註ラクシャナティーカー』、ハリバドラ『現観荘厳論』などの新出のサンスクリット写本の校訂出版やデプン僧院所蔵の『カダム全集』の印影本の出版などにより、近年中観思想研究が著しく発展したことが報告された。
さらに科学研究費助成プロジェクトとして「バウッダコーシャ」というプロジェクトにより、仏教語の訳語のレファランスデータベースも著し発展したこと、今後のチベット仏教研究の課題として、インド仏教からどのように発展したのか、またパーリ語文献や漢訳文献などとの訳語の対照などをして仏教のさまざまな地域にどのように発展したのか、ということが分かり、そうした精緻な研究により同時に心の平和や世界平和に貢献できるとの報告が行われた。
ダライ・ラマ法王からは、仏教における四依説に「言葉によらず、意味によりなさい」とあるように「空・無我」と表現されていても、それは毘婆沙師・経量部・唯識派・中観派によって解釈が異なっており、ダルマキールティの『量評釈』には同じ無我ということの説明が、経量部の立場でなされている部分と唯識派の立場でなされている部分とが混在しており、精緻な文献学研究に加え、思想研究もまた重要であるというコメントがなされました。
日本の仏教論理学研究/桂 紹隆
広島大学で長年教鞭をとられ、この3月で龍谷大学も退職された桂紹隆先生からは、日本の仏教論理学研究は、まず日本に伝わった龍樹に帰せられる『方便心論』、ディグナーガの『因明正理門論』、シャンカラスヴァーミン『因明入正理論疏』などにはじまり、平安時代には留学僧の道昭が玄奘に弟子入りし、護命『大乗法相研神章』や善珠などにより唯識性の証明などをインド論理学の伝統にもとづいた因明や法相の伝統がはじまり、そののち比叡山や高野山でその伝統が続き、江戸時代には浄土真宗の僧侶が仏教論理学を研究し、著作を残し、これらの因明の伝統は「論義」の伝統として日本で続き、浄土真宗でも現在は安居の時にディベートがなされていることなど、日本にも伝統的に仏教論理学が存在していたことが報告された。
その後近代仏教学がはじまり、特にディグナーガとダルマキールティに対する研究が現代では非常に盛んに行われている状況が桂先生ご自身が関わってきたプロジェクトとともに紹介され、最後に「71歳になった私はどれだけこれから生きれるか分からないが、残っている人生を仏教論理学の研究の継続に使いたいと思う」と結ばれた。
ダライ・ラマ法王からは
スリランカの上座部仏教の人たちに、パーリ語仏典の伝統では、四諦十六形相についてブッダがそれを説いているからという聖言量のみしか詳しくはない。
しかしサンスクリット仏典の伝統では「賢者はブッダの言葉を検証してはじめて尊敬すべきである」と説かれている。
ナーガールジュナ、アールヤデーヴァ、アサンガ、ヴスバンドゥにはじまり、ディグナーガ、ダルマキールティによって大成された仏教論理学は、チベットではサキャ・パンディタの『正理蔵』、チャパ・チューキセンゲによってチベットでも仏教論理学の伝統が築かれたことが注目され、また論理学自体は、インド哲学で特に発展したものであり、そのインド外教徒とのやりとりが、シャーンタラクシタの『真実綱要』とその弟子であるカマラシーラの『細疏』で詳しく展開していること、こうした伝統はサンスクリット語仏典を学ぶナーランダー僧院の伝統だろう。
特にあなたの最後の言葉には感動した。
とのコメントがなされました。
チベット文明の普遍性 ─古文献研究の視点から/武内紹人
武内先生は言語学者の立場から、敦煌、ラブノール、コータンなどの地域の古代チベット語文書などを分析し、過去にチベット支配下にあった地域がチベットによる支配が終了した後にも、チベット語がその地域の普遍的な言語として使用されてきたことを報告されました。武内先生によるとチベットの文明の普遍性はその仏教文化の豊潤さに起因すること、そしてその文化的影響をうけた地域では、11世紀までチベット語が特権階級の共通言語として使用されてきたことを考えるとチベットの文明が如何に普遍的な性格をもっているものなのかが分かるとのことです。
武内先生の発表は古代文書の写本や断片なども多くスライドで提示され、法王からも「私も似た様な話を現在のキルギスタンなどの地域から聞いたことがある」とのコメントがなされた。