文殊師利大乗仏教会
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本日のことば
Today's Voice
本日の言葉
多くの仏典の言葉から、日々ひとつひとつの言葉に向き合えるためにいくつかの連載をしています
弥勒仏への悲讃
参学への道標
水の教え
ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第27回
やさしさの使徒であり続けるため
諸尊に喜んでいただけるようにする。如来は衆生を導く指導者であり、救済者である。だからこそ、彼らに私たちは、これから先どんな場所に転生しようとも、どんな境涯を受けるとも、彼らの偉大なる活動が行われるその場に近づけるように、彼らを礼拝し、心づくしの供物を捧げる
2021.11.21
クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第25回
そこからすべての現象は起こってくる
十二処とは対象とそれを捉える感官とで一切法を区別したものであり、対象とされるものを「外処」と呼び、それを対象とするものを「内処」という。対象には六境があり、色処・声処・香処・味処・触処・法処の六外処があり、それを対象とするものは六根であり、眼処(眼根)・耳
2021.11.05
ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第26回
彼方へ辿り着けない私たちがいまできること
この地上にも、兜率天の宮殿からは弥勒仏の大慈のやさしい眼差はいつも降り注いでいる。私たちがどんなに酷い態度でいたとしても、どんなに爭いあっていても、そのやさしい光は決して途切れることはない。かつて無着のように生まれながらにして仏法興隆の大任を担うべくこの地
2021.10.29
クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第24回
十八界とふたつの眼
五蘊・十二処・十八界のなかで十八界はもっともわかりやすいものであり、『般若心経』にもでてくる基本的な一切法の分類である。
2021.10.18
ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第25回
客人として迎えてくださる やさしさの君
勝者と勝子の御前で五明処の 海原に幾度も生を受けてきた 聞法を繰返し 習気は覚醒する 衆生に賢道を示す君が唯一の眼 過去の賢者たちにも見放されてきた 何方へ向かうべきなのかも判らない 寄る辺なくここにいま迷い込んだ私 大慈の君が客人として迎えてくれる 何度
2021.10.16
クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第23回
流れる心の塊とその佇まい
色・受・想・行・識の五蘊の最後の識蘊とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識であり、それらを生じる増上縁たる感官は眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六根であるが、眼識から身識までのものは、外部の物質を感受するものであるが、意根が感受するものは、物質
2021.10.11
ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第24回
彗星が流れていく方へと
恐るべき輪廻の断崖に墜ちないように 無垢な志をもち聞法を繰り返してきた 真偽を量るため清浄な道理の力をかり 無限の善説の了義・未了義の何れかと 他者に頼らなくても如実に峻別できる 賢者の境地を得なくてはならないのに 然れども勝者の微細な意趣はもちろん 進む
2021.10.05
クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第22回
樹々のように、雲のように
声聞・独覚・菩薩の凡夫の各々には、 資糧道・加行道位の二種の者がいる。 声聞は預流・一来・不還・阿羅漢と、 四向四果で分けるのなら八輩がいる。 独覚は麟角喩と部行とで二者がいる。 菩薩は十地によって十種の者がいる。 障礙が有る者を有情というのであり、 障礙
2021.09.29
ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第23回
記憶にない罪状で囚われた私たちのことを
貪欲の泥に沈んでしまい解脱道から逸れている 無明の深い闇のなか 智慧の眼を持っていない 戯論により逮捕されて輪廻の監獄に監禁される 業の拷問を受け続けている私 君の大悲の所依 27 私たちは決して思い通りならない人生を生きている。幸せを求めるが、人生は簡単
2021.09.21
クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第21回
住んでいる場所や姿はさまざまだが、私たちは仲良くひとつである
地獄には熱地獄・寒地獄・近隣の者 分散しているもの、で四種がいる。 餓鬼は本拠地の者と分散した者とがいる。 畜生には大海を住処とする者たちと 三大陸に分散し棲む者とで二種がいる。 人間は四大州に分散して四種がいる。 欲天は四天王衆・三十三天・夜摩天、 兜率
2021.09.19
ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第22回
溺れる私たちの最期の希望
人間や神々に生まれるということは、生まれつき幸せが多い境涯に生まれる、という大変恵まれた環境を得ているということである。私たち人間は家畜として飼育されることもないし、鞭で打たれて曲芸をしなくてはいけない訳ではない。
2021.09.16
クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第20回
動きつづけている人たちのことを
チベットの僧院では、小さな出家したばかりの僧侶たちに、釈尊が「人のことを人であるという基準で測ってはならない、人のことは私と同じように如来と同じように見なして判断しなさい」と説かれたこの教えを最初に教えていく。
2021.09.14
ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第21回
見知らぬ惑星に生まれるのか、地球上の人類でいるのか
いまの私たち人間が住んでいる欲界の神々とは、私たちが通常望んでいるすべての希望を実現したものである。しかし彼らは欲望をすべて断ち切ったわけでもなく、欲望がある限り、それは永遠に満たされることはなく、次から次へと欲望の対象を追い求めていかなくてはならない、と
2021.09.07
クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第19回
私たちと世界を作っている、揺れ動く心の風景
五蘊のうちの物質である色蘊・感覚や知そのものである識蘊、これに経験を受蘊として、それが一体何かを表象している印象である想蘊という色・受・想・識の四つどれでもないすべての無常である有為のことを「行」と呼び、その多くを集めて仕分けしたものが「行蘊」である。
2021.09.06
ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第20回
すべての欲望が叶う時に訪れる悲劇
人生が終わりを告げる時、すべてのものを捨て、すべての人に別れを告げる。眠るように静かに死んでゆき、多少なりとも積んできた善業を頼りに、来世はきっといいことがあるだろう、そう思って死んでゆく。見えていたものは見えなくなり、聞こえていたものは聞こえなくなる。意
2021.08.28
クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第18回
自己を形成する個人的な経験と印象の塊
眼等と集合して接触して 発生する受蘊は六つある。 同様に想蘊もまた六つある。 18 五蘊は、私たちの感情や思考というものをひとつの塊であると考えることをやめさせて、経験である受蘊、それが一体何かという心の印象である想蘊、そして様々な心の動きとそれ以外の物質
2021.08.18
ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第19回
苦しみの容器に閉じ込められた人間
人間は、生まれながらにして地獄・餓鬼・畜生・修羅といった悪趣の衆生たちが味わっている苦痛に全面的に悩まされている訳ではないが、人間には悪趣の苦しみのそのすべてが存在している。
2021.08.15
クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第17回
水と炭でできた壊れやすい有機体
五蘊の最初の色蘊とは、『阿毘達磨倶舎論』では、物質のことであるが、これは眼根・耳根・鼻根・舌根・身根の五根、色・声・香・味・触の五境、それと感受できない物質である無表色とで合計十一あるとする。
2021.08.11
ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第18回
崖の淵に立って考える、これからのこと
私たちは偶々運が良くいまは人間に生まれることができている。人間はお互いに思いやりをもち、他者を愛し、自分よりも他者を大切にして善業を積むことができる。できるだけ他の生物に苦しみがもたらされないように、そのために様々な工夫をして生きることができる。だからこそ
2021.08.07
クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第16回
目覚めの時、はじめに意識するもの
五蘊の「蘊」とは麦や米の畑で収穫したものを積み重ねていくように、仕分けをして積み重ねたものことであり、因果関係にあるすべてのものを仕分けするならば、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の五つが有り、色蘊は物質であり、識蘊は精神や心のことであるが、それ以外のものが受
2021.08.06
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