最近、ゲンギャウさんは以前にも増して日本語の勉強に精をだしておられます。
日めくりカレンダーを毎日めくり、その紙の後ろにせっせとTVから聞こえてきた日本語を書き出しては、
「これは何の意味ですか?」
と、質問してこられます。
還暦を越されたゲンギャウさん。
「いくら覚えても、すぐに忘れてしまいます」
と言いながら、何度も何度も紙に日本語を綴られます。つたなさの残るやさしい文字で。
ある日ゲンギャウさんに、
「『自信』はどう意味ですか?」
と問われて、私にはすぐにチベット語が思いつかなかったため、当会局長にお聞きました。すると「自分を信じるの意味だけど、少し傲慢も含んだ言葉ですよ」との答えが。そうですかと、そのときの会話は終わりました。
それから数時間たち、天気もいいからと近くにある仏塔までコルラしにゲンギャウさんと出かけました。その時ゲンギャウさんがふと思い出したように、
「さっきの日本語は『自信』ですか?」
と聞いてこられました。そうですよ、と答えると、坂道を歩いているゲンギャウさんは、少し荒い息をはきながら、
「傲慢の固まりに水を撒いても、福徳は生じない」
と、チベットの言喭を早口で口にされました。
新しい言葉が覚えられない覚えられないとおっしゃるゲンギャウさん。だけどチベット仏教の言喭はすぐに口をつきます。
私たちは小さなことですぐに傲慢に成りがちですが、仏教では傲慢は所断の対象です。傲慢になった時は、自分よりよく出来るひとのことを考えればいいと、以前教えてもらったことがあります。ジェ・ツォンカパも、自分が経典をよく知っていると思って傲慢になられたとき、ダーキニーだったと思うのですが、誰かが数限りない経をツォンカパの前に示し、彼の中に生じた傲慢の芽を摘んだというエピソードがありました。
「日本に来て6年もたつのに、全然喋れないですね」
と照れ笑いされるゲンギャウさんの頭と心の中には仏教の教えがしみ込んでいます。