仏典のなかで実践の深遠さというものが説かれる時、「語ることも思考することもできないもの」(不可詮・不可思議)と何度も説かれています。一方では、同時に実相の意味を知るためには、「聴聞をしたり考えることが必要である」とか「論理によって検討すべきである」とも何度も説かれています。
この場合「語ることができないもの」というのは、個々に考えて検討する知の対象を超越し、それでは思考することができないこと、つまり「語ることができない」というこれは、聖者の三昧知が実義を経験しているのと同じようには、私たち凡夫の分別知では思考できないものであり、ことばで語ることができないということを説いています。
一般的に智慧には、聴聞から生じた智慧(聞所成・もんしょじょう)、思考から生じた智慧(思所成・ししょじょう)、修習から生じた智慧(修所成・しゅうしょじょう)と三つのものがありますが、聞所成と修所成の段階で「語ることができない」「思考することができない」ということではありません。もしもそうであるとすれば、「聞所成の慧」とか「修所成の慧」というものはあり得ないことになってしまうでしょう。
もしもどんな時もすべての場合に「語ることができない」のであれば、世尊は黙って居られるほかにはどうしようもありませんし、閻浮提の六荘厳と偉大なるお二人と呼ばれる方も、黙って居られるなければならないのである。しかし彼らは沢山の法を説かれており、沢山の書をお書きになられています。彼らは説明するべきことがないのに何か説明したのではありません。説明すべきことがあるから説明されているのです。
このようであっても、聴聞した内容を何度も何度も思考して、それについての確信を得て、それを集中して修習してその修習を現前のものとする(心に表面化する)ことができた時には、ある特別な経験というものが起こってくるのです。
これは私たちがいつも語っている「空性」というこの単語の言葉のイメージを理解できるようになることとこれは全然違うものですし、また各自が空性の意味を何度も何度も思考することを通じてその考察がある程度しっかりしたものになることともこれは異なっているものです。そしてそのようなものが「語ることができない、思考することすらできないもの」ということになるのです。
たとえば、映画やテレビのなかに、アメとか食べ物のことをそれが非常に美味しいものであることをいくら語っていたとしても、その人が実際に舌の上でその味を味わってみるまでは、その人にとって想像する限りのことでしか「思考できないもの」となっています。何故ならば、各自がその味わいを経験していなければ、「美味しいものなのだ」とこう語ることができること以外には、他にどのようにそれが美味しいものかということなどについては語ることができないのです。同様に、このような種類の内的な経験がどのようなものなのかということは、それを経験したことが有る者以外には、それ以上は分からない、そういうことなのです。
ダライ・ラマ法王チベット語公式サイト質疑応答より
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