我々はいま今の段階では我執をもっている。この我執にまみれた心が“我”を捉えているのである。しかしそう捉えている通りに成立しているのだろうか。これを繰り返し検証し考える必要がある。そうすることで“無我”とは何のことか分かる。これが聞所成の慧である。
そしてそのような理解が起こった後にも、何度も繰り返し「“我”は一体如何なるものなのか、それ自体で成立している“我”とはどんなものなのか。それを何度も考えればある時で心の底から「やはり如何なるものも自性により成立していないな」と思えてくるだろう。自分には対象自身の側から存在しているかの如く現れているが、それはその顕現通りのものではない、と確信が起こるであろう。これが思所成の慧である。
このように心の底から確信が生じた後に、これ以外には有り得ないと決定知が起こり、この無我の理解を繰返し修習することで、論拠に思いを寄せて無我であると推理するのではなく、対象に心を向けるだけで、心の底からそれは必ず無我であると心の底から思えるようになる。これが修所成の慧である。
その上で心の一点集中であるこの“止”を成就し、その力を借りながら、止観双運の無我を理解する智慧を起こし、無我なる対象にその上で更に繰り返し修習を続けることで、常時意識が無我へとに留まることが出来るようになるだろう。
最終的に二顕現を退けて、無我それ自体に確定する意識の側で無我なる対象を確定しているだけでなく、世俗の顕現の破片が段々次第に消滅してゆき、無我それ自体だけに心底確定を得ている意識、二顕現を伴わない形式で無我を理解する時に“聖者の道諦”となるのです。
このような証解が生じた後各々の所断を直接断じて、その後で断じた“離”というのを得ることとなるのです。このような滅と道の二つが“法宝”と呼ばれる。
このような聖者の道諦が心に生じている者の事を“聖者”と呼ばれる。そしてこれが“僧宝”と呼ばれる。未だ道を続けて修習する必要があるので“有学の聖者”と謂われている。かれらは未だ道を学ぶべき“聖者”にすぎない。“聖者”とは凡夫の知を遙かに上回っているということを意味している。
その後で段階を追い、大乗の場合、初地から第二‥‥第六地まで順を追ってゆき、第八地を得た時には煩悩障を断じ終える。その後第八、九、十地の三清浄地の間に、所知障を断じはじめて第十地を終える段階に、所知障とその習気とを断じて、それを断じ終えた後には新たに道を学ぶ必要がなくなる。そこで“無学僧伽”となるのであり、大乗の場合にはこれが「仏」であるということになる。“大乗の無学僧伽”、これが仏陀である。
我々が仏・法・僧と呼んでいるのは、このようなものを表している。