2010.01.08

仏法僧と教えが説かれる順序に拠っている

 

無我を直観する智とは、何から起こるのか、何処に起こるのか、どのように起こるのでしょうか。

それは我々の意識、今この段階では我であると捉えているこの意識、我執をもったこの意識、我執にまみれたこの心に、我執の捉える通りの我は成立しているのか?これを何度も何度も検証して考えることで「無我」というものがはじめて「ああ 無我というのが有るな」「無我だって説かれるよな」このようにに思ってはじめて聞所成の理解が起こります。

その理解が起こった後でそれを何度も何度も考え、「我というのは一体何だろうか」「それ自体で成立するものこれはどんなものか」こう何度も考えてゆけばある段階で心の底から“自性により成立するものは無い筈だ”と思い、「私に見えるこれは対象自身の側から有るかの様で対象の自体の側から成立する様に現れているが、その現れ通りのものは無いな」こう確信するようになるでしょう。これが思所成の慧と謂われるものです。

このように心の底から確信が生じた後に、これ以外には有り得ないと決定知が起こり、この無我の理解を何度も何度も繰返し修習することで、この対象の証拠を思い考えて無我だと推理するだけでなく、無我ということに心を向けるだけで、心の底から無我であるに違いないはずだと、心の底から思えるように修習の力で心を転換出来るのです。

そしてその上で心を一点集中させる「止」となるのですが、この「止」は仏教だけでなく他のインド哲学にも有ります。心の一点集中であるこの“止”を成就し、その力を借りながら、止観双運の無我を理解する智慧を起こし、そうすると無我なる対象にその上で更に繰り返し修習を続けることでいつも意識が無我なる対象に留まる事が出来るようになります。

最終的には把握するものと把握されるものとが二つに顕現することを退けて、無我それ自体に確定した意識の側で無我なる対象を確定しているだけでなく、世俗の顕現の破片が段々次第に消滅してゆき、無我それ自体だけに心底確定を得ている意識、二顕現を伴わない形式で無我を理解する時にこれが「聖者の道諦」と呼ばれるものとなります。

このような証解が生じた後各々の所断を直接断じて、その後で断じた「離」というのを得ることとなるのです。このような滅と道の二つ道諦とそれによる滅諦が「法宝」と呼ばれるものです。

このようなことから、今のこの我執が有 痴真実把握が有るこの心の上に、考えを深めて無我を理解する智慧を起こす必要が有るのです。いまのこの知に続くものその上に成り立つものとして、我執があるその者が意識している通りに成立するかどうか何度も考えて無いと言う風に、最初は聴聞して聞所成の理解を起こしその後に思所成の確信に至り、その後に修所成の慧を修習することでその後に止の力で止観双運の無我を理解する慧を起こし、それを引き続き修習し二顕現を退けた無我を現量する智が生じた時、それを“聖者の道諦”と呼び、この道諦の所断すべてを断じることで得たその離垢の境地を“滅諦”と呼ぶのです。この二つが真の“法宝”です。

このような聖者の道諦が心に生じている者の事を“聖者”と呼んでいます。これが“僧宝”と呼ばれるものです。しかし未だ道を続けて修習する必要があるので“有学聖者”と謂われますが未だ道を学ぶべき“聖者”なのです。“聖者”とは凡夫の知を遙かに上回っている意味です。

その後で段階を追って大乗の場合を言いますと、初地から第二‥‥第六地まで順を追ってゆき、第八地を得た時には煩悩障を断じ終えています。その後第八、九、十地の三清浄地の間に、所知障を断じはじめて第十地を終える段階に、所知障とその習気とを断じてこれを断じ終えた後には新たに道を学ぶ必要がなくなり、“無学僧伽”となり大乗の場合にこれが仏です。“大乗無学僧伽”それが仏陀です。

ですので我々が仏・法・僧と呼んでいるのは、このようなものを表しているのです。

我々は普通は仏法僧とこの順番で数えますよね。仏法僧と言うのはある教えが説かれる順序に拠ります。

先は仏陀が降臨され、仏が法を説き示され、その中でも先は聖言法が説かれ法輪が転じられて、それに基づき有為である聖言の法を聴聞して、聴聞した内容を実践し、戒・定・慧の三学を修め証得法が所化の知に起こります。証得法を三学の修習でよくよく理解することにより、その後先ほど言った様な空性を現観する聖者の智慧が起こるようになるのです。

これが本当の“法宝”ですここで“法宝”が成立します。“法宝”を成就し、この“法宝”を自分自身の心に起こした事に基づいてこれを心に持つ者自身が“聖者の僧伽”となります。こう考えるとそのメインは“法宝”という事になります。“法宝”が心相続に起こっているか否かにより、聖者の僧伽か否かが決まります。起こってないのは凡夫ですが、起こったその時点から聖者の僧伽となります。このように“法宝”に基づいて“僧宝”が考えられます、“僧宝” “有学の僧宝”がより良く変化して最後に“無学の僧伽”“仏陀”となります。

我々の心に起こる順番は先ほどの通りです。先ずは“法宝”が心に起こり、それが起こった時点から自分自身が聖者の“僧宝”となり、その後に引き続き道を修習する事に依って、最後に自分自身が“仏”となるのです。この場合は“仏”が最後です。

“帰依仏 帰依法 帰依僧”と唱える時このような事を考えながら“私の心に法宝を起こそう”“私は僧宝へと変わろう”「最後に 私も 一切衆生の為に一切相智 仏陀の位を得よう」こう思う必要があります。そう思いながら帰依をするのならば、大乗の帰依となるのです。

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