日本でも般若経は極めて重要な経典であるのと同様に、デプン・ゴマン学堂は「パルチン・ダツァン」と呼ばれるように般若経と『現観荘厳論』を五大聖典のなかでも最も重要なものとして教えています。
他の学堂では一般的には、ジェ・リンポチェ(ツォンカパ)の弟子である、ゲルツァプジェ・ダルマリンチェンの『釈心髄荘厳』(ナムシェー・ニンポゲン)を中心に教え、その他「チトン」(総説)と呼ばれる通論と「タチュー」(考究)と呼ばれる研究書をお寺の教科書(イクチャ)としていますがゴマン学堂では、ゲルツァプジェのものではなく、ジェリンポチェの『善説金鬘』(セルテン)をベースに、クンケン・ジャムヤンシェーパ(ゴマン学堂第32代学堂長)の「タチュー」(考究)を教科書としています。
般若経には長いものは、『十万頌』(大般若経)、『一万八千頌』、『二万五千頌』『八千頌』をはじめとし、よく知られた般若心経、さらには一文字の般若経(アという一文字しかありません)まで長いものから短いものまで、さまざまなものがあります。
18世紀のモンゴル人でゴマン学堂で学んだテンダル・ラランパ(1759-1831)は次のように般若心経の注釈書のなかで説いています。
これらの「広・中・略の三つ〔の般若経〕は同時に説かれたものである。〔釈尊の説法を〕請願した人物がすべて一致し、方言を修正するためにいた目連の天女に対する授記について一致しているからである。この理由は充分な根拠である。プトゥン一切知者が「一人の仏陀によって一人の人間に何度も何度も菩提を得るであろうと授記するのは正しくないからである」とおしゃっているからである。
これはどういうことかといえば、すべての般若経は同時に説かれたものであるということになります。
では、何故ブッダはこういうことが可能となるのでしょうか。それは先日来日講演でもダライ・ラマ法王が説かれていた通り、ブッダには四身というものがあり、我々の思議を超えた活動をしているからにほかなりません。
我々大乗仏教を奉じる者にとって、この四身ないしは三身というのは極めて重要な考え方です。何故ならばこれが分からなければそもそもブッダというのがどんな存在なのか分からなくなってしまうからです。
この四身また三身については次の機会に書きます。