「今日は一体なんのために来たんだ…」
4月28日に東京の大本山護国寺にて行われた、東日本大震災犠牲者四十九日特別慰霊法要の時のこと。その日、ダライ・ラマ法王はアメリカへと向かわれる時間の合間をぬって日本にたちよられ、先の地震でなくなった人たちのために法要をとりおこなわれました。
まず、ゲンギャウさんを経頭をつとめられチベット人僧侶による読経がとりおこなわれた後、続いて日本の僧侶の読経、そして最後に法王が地震についてお話をされました。
その法王のお話が佳境に入ったときのこと、空にわかに雲がたちこめ、雨が降り出しました。
「下がって、後ろに下がってください」
と、法王の乗られる車が止めてある辺りでは、参拝者が法王におしかけないように、参拝者の整理が行われていました。みな、法王を近くでみたいとの思いで、車の前で法王が来られるのを待っておられましたが、にわか雨のせいで車が建物の前につけられ、法王は歩いてこられないことになってしまいました。
そんな状況になって、ある人が先の言葉を口にされるのを耳にしましたが、その言葉がしばらく耳に残りました。
今日は一体何をしにきたのだろう。
ダライ・ラマ法王は観音菩薩の化身であり、チベットの政治からは退かれたものの、今なお殆どのチベット人にとって心の支えであることには変わりありません。その日も、多くのチベット人たちがつめかけていました。チベット人のみならず、全ての人の思いは一つ。なんとか法王にお会いしたい。
しかし、法王のお目にかかることに、一体どんな意味があるのでしょうか?
以前、南インドのデプン・ゴマンに滞在していた時のこと。勉強を教わっていた先生に、
「昨日は何をしていたんだ?」
と聞かれました。
南インドのお寺も、龍蔵院と同じく月曜日がお休み。なのである月曜日、勉強が休みの時間を使って、デプン寺院の近くにあるガンデン寺院に参拝に出かけました。
デプン寺院と並び、ガンデン、セラ寺院はチベット三大寺院。これらの寺院にはそれぞれ、ダライ・ラマ法王のお休みになられる部屋が作られるのが習わしです。私が参拝に行った時、ちょうど知り合いがガンデン寺院にある法王の部屋の鍵番をしていたため、そちらのお部屋に入らせてもらう機会を得ました。
だから先生に、法王のお部屋に参拝してきました、と報告すると、先生は声を出して笑われて、
「大切なのは法王の説かれたその教えだ。法王の椅子を見ただけで、何もならない。それよりも勉強しなさい!」
とおっしゃいました。
法王にお会いしたいというその気持ち。それはとてもよく分かります。法王はやはり人を引きつけて止まない、強い魅力をもっておられます。
しかしながら、その本当の魅力は、あの笑みにあるのではなく、その口からでる教えにこそあるのではないでしょうか。
それに、今回行われた法要は、東日本大震災で無くなられた人々の慰霊のための法要でした。法要が始まる前にゲンギャウさんも、
「今回の地震は日本で起こったことです。ですから、日本の亡くなられた人々のために祈りを捧げることはとても重要です。けれど日本の人だけではなくて、『世界中の生きとし生けるもののために』と思って祈ることが出来たならば、もっと素晴らしいことですよ」
と教えてくださいました。
法王がお話を終えられて外に出られる頃には、雨はやみ、清々しい青空がのぞきました。そして、人々の間を縫って境内を歩いて退場されました。
どうか法王が、一日でも長くこの世に留まられて、多くの所化に教えを説いてくださいますように。