「ちょっと待ちなさい、話は終わっていない」
東京で行われたゲンロサンの講演会での一幕。その日の講演会はあまり仏教の専門的なものではなく、化身ラマについてなどもう少しわかりやすい気軽に聞ける講演会、のはずだった。しかしゲンが説法の時の同じように仏教について話し始められたので、事務局側から急遽もうすこし日本人の興味のありそうなお話にしてくださいと申し出た。それに対して、ゲンは待てとの言葉を発せられた。
「彼らが今理解できるかできないかは問題ではない。それよりも彼らの中に仏教の習気をおくことの方が大切だ」
その後1時間半ほど十不善や業果など仏教について語られ、最後に質疑応答をして講演会を終えられた。
習気(じっけ)は種にたとえられる。種を撒いた瞬間に花は存在しない。だが、肥料や水や日光などの条件さえ揃えば芽吹く可能性を内に秘めている。
それと同じように、今仏教を説いて人々が理解することができなかったとしても、いつかこの縁を原因として仏の教えが人々の中で花開くことを願い、ゲンロサンは話を続けられたのだろう。
このように相手が理解するしないに関わらず、説くこと自体が大切だという姿勢は、僧侶の方たちと接しているとたびたび感じる。
「あなたの友達に良い行いをするように言ってください。その人が聞いてくれるかどうかは問題ではないです。聞いてそうしてくれたら一番いいけど、そうならなくてもがっかりしないでください。いつか友達もわかるかもしれないし、あなたは良いことを語ったんだから善行を積むんだし、良いことだらけです」
と、ゲンギャウさんも語っておられた。
しかし、このような態度は、ともすると相手を置き去りにしてしまっているのではないかという疑問が心をよぎる。相手の理解に対する思いやりに欠けているのではないか。
以前、当会の事務局長が、
「お坊さんたちは人に対して優しくないというか、あんまり感心ないよ」
と話されているのを聞いた。その時は何を言ってるんだ思ったが、よく考えてみるとそこには一理あるように思われる。それは、
「仏になるために自らを磨こうとしている人たちだからね。やっぱり厳しい人たちだよ」
という言葉に尽きるように思われる。
なぜ仏の教えを行じるか。それは仏となるためである。まずは自分が仏にならなければ、本当の意味で他の生き物を益することができない。だからこそ、僧侶の人々は、日々自身を淘汰するために精進される。利己的無関心。しかしその態度は、本当の意味での他に対する思いやりなのだろうと思う。
いつもにこにこ、やさしいお坊さんたち。その笑顔に癒され、元気づけられる私たち。しかし彼らの心の中には、自己に対する厳しさが根付いている。