「ダライ・ラマ法王は、最近ではラダックが一番仏教に熱心だとおっしゃられているよ」
ゲンロサンとゲンギャウさんはインド北部ラダックのザンスカール地方の出身。近年ラダックでは毎年のようにダライ・ラマ法王が訪問され法を説かれているが、そのたびにチベット各地方からたくさんの人が集まり、一つの町のようになる。
ラダックの人々はデプン学堂ではンガリ学寮に入る。昨年はダライ・ラマ法王が訪問された。
「ラダックの人々はほんとに勉強熱心だ。ある日バスで出会った女の子なんか、『先生、仏教について教えてください』と私に申し出て、私が発する一言一言を熱心にノートに書きとめていたよ」
ラダック各地にはたくさんの寺院があり、仏教の帰依所には事欠かない。ただ、以前の寺院の役目は在家の家に赴いて読経したり、祈祷したりするのが主な役割で、僧侶自身が仏教の教理を学ぶということはあまり重んじられていなかったらしい。
「法王が『勉強しなさい』と何度も何度も説かれたおかげで、ラダックの在家者たちの意識も高まり仏教を勉強しようという気運が高まってきた。それに伴って僧侶の側も祈祷だけではなく、しっかり勉強しなければならないという気持ちが高まってきたんだ」
確かに、仏教を行じるはずの僧侶が、一般の人から仏教について聞かれて「う〜ん、わかりません」とばかり言っていたのでは、立つ瀬がない。一般の信徒と帰依処である僧侶とが相乗効果でお互いを高め合う。それが近年のラダックの姿。
「先日も法王が勉強しなさいって説かれただろ?日本の人々も、もっと仏教を学ばなければならないね」
ゲンの言葉は厳しいが、確かにラダックのような切磋琢磨し合う状態になったら、どんなに素晴らしいことだろうか。そうなれるか否かは、一般の非出家者にかかっている。
しかし、どうすれば現代の日本に生きる人々にラダックの人のような気持ちが起こってくるのだろうか。
「信仰とは何か。それはまず、釈尊を愛する心が必要だ。仏法僧を強く恋い慕うことだ」
そう語るゲンロサン瞳は、少し遠くを見つめ、心なしか潤んでいるように見える。まるで恋する乙女のような顔と言っては、不遜だろうか。まるで釈尊が自分の目の前におられるかのように、ゲンの表情が変わった。
「しかし、愛だけでは信仰にはならない。例えば母親の子どもに対する愛を考えても、それだけでは信仰とは呼べない」
以前、ダラムサラで行われた説法で、ダライ・ラマ法王が席を立たれて戻られるとき、一人の欧米人の女性が、
「アイ ラブ ダライラマ〜!」
と叫んでいるのを目にした。それに対して、法王は笑顔で返されてはいたが、それを信仰とは呼べないのだろう。
「では何が必要かと言えば、それは『理由』だ。どうして釈尊が優れているのか。どうして仏教がどうして素晴らしいのか。それを何度も考え、考察してその愛する理由が固っまった上で信じることができたならば、それは智慧に裏付けされて強い信仰となる」
近年はアメリカやヨーロッパでも、法王の説法を聞き、仏教は素晴らしいと考えて信仰するようになる人たちがたくさんいるらしい。チベットやラダック、あるいは日本に生まれた人は生まれながらにして大半が仏教徒である。だが、最初から仏教に親しめる環境に生まれることができたことは幸福である反面、近くにありすぎてその本質が見えにくくなってしまっている部分もあるのだろう。
「信仰なきところに仏教はない。仏教に入る最初の門は帰依だよ。このことをよく考えてみるといい」
秋の特別集中法話会でも、ゲンロサンはまずは帰依について説明された。
ゲンロサンは昨日、日本を後にされインドに無事到着された。先生の帰りを首を長くして待っている生徒たちのため、早々の帰国である。
この1ヶ月の間、ゲンロサンの説法会にダライ・ラマ法王の説法会と大きな行事が続き、事務方はパンク寸前だった。ただ、ゲンロサンを送り出した今、心の中にはどっしりとした充実感が残っている。それは、法王にお会いできたから、ゲンロサンにお会いできたらか、というのも少しあるが、一番はその人たちが語る教えの一端に触れる機会を得られたからだと今は思う。
「言葉ではなく意味に依れ
人ではなく法に依れ」
願わくば法王やゲンロサンが撒かれた種が、花開き、実りをもたらすことができるように。