「人の人生にとって必要なものは何か?」
生徒が教科書を取り出すのを待ちながら、先生が問いを発する。問いというよりは生徒に言い聞かせるための自問自答に近い。
「僧侶であるか、俗人であるかは問題なく、まず健康な身体が必要だ。身体を病んでいたら、何もすることは出来ない」
インド哲学の諸学派の中には苦行を修行の中心に据えるものがある。釈尊も最初は飲まず食わずの苦行をなされた。だがスジャータの乳粥を飲まれて、それではダメだと悟られた。
「次に必要なのは、『目的』だ。目的が無ければ何を行うにしてもどこに行くのかわからなくなってしまう」
次に『目的』が来るのが面白いと思う。だが、よくよく考えてみると、とても理に適っている気がする。目的地を考えずに電車に乗る人はほとんどいない。
以前、日本の若者がチベット人に「あなたの人生の目標、目的は何ですか?」と問われ、その若者が答えに詰まってたのに対し、チベット人が怪訝な顔をしていたことを思い出した。
「たとえば、商売をしてお金を貯めたいというのも一つの目的だ。国のために役立ちたいと思い、役人になるのもまた目的。人のために教育に携わり、教師になるものそうだ」
今の日本の大学では、就職活動が重要な。だが、明確な目的や目標を持って就職活動に従事している学生は、一体どれくらいいるのだろう。
「しかし、目的があってもそれだけではダメだ。希望通りになればいいなぁと思っていただけでは、何も変わりはしない。それぞれの目的を成し遂げるために学ばなければ」
先生はよく「護法尊に頼りすぎるのはよくない」と話される。信心は必要だし、それがなければ護法尊の意味もなくなってしまうが、護法尊に頼るのは自分が仏教を学ぶ手助けをしてもらうため。大切なのはあくまでも自分が仏教を学ぶことだと。
「ただ、私たちはすぐ怠慢に負けてしまう。『今は忙しいから、1時間後にしよう』一時間経ったら、『今は忙しいから、夜にしよう』夜になったら『今は忙しいから、明日にしよう』そうやって明日が明後日になり、明後日が来週、次の月とどんどん延びて、時間を無駄に過ごしてしまう」
勉強を阻害するするものはそこれかしこに溢れている。それは自分が望むのと望まないのとに関わらず。
「だから、自分が学ぶんだ!という『熱意』が必要だ。目的を達成しようという熱意に支えられなければ勉強は進まない」
人の心は陽炎のようである。その意志はとても脆く、折れ易いし、またそうなる原因は種々数え上げることができる。
「今私が話した健康、目的、勉強、熱意について何度も想いを巡らせてみなさい。さあ、授業を始めよう」
そう言って、先生は厳つい顔でにっこり笑われた。