輝かしい資産も持っていなければ
如何に家柄が立派でも無意味である
涼しい木陰をつくりだせないなら
高く生えて何の役に立つだろうか
元本たる福徳が無くなっていれば
いくら貯めても貧しいままである
幹の芯までが乾いているのなら
枝を濡らしても何にもならない
負債や利息で資産を増やそうとするが
元本を失ってしまう方が多いのである
生え茂った木をわざわざ切り取って
他所へ移しても大体は枯れるのである
高く険しい崖に生えたマンゴーが
果実を実らせているのと同じである
自分にも他人にも役立たない
巨大な資産はただの瘤である
資産を増大させたいと願うのなら
一部を放棄することが教訓である
観葉樹の葉を育てたいと思う人は
先端を剪定する方針を採っている
仏教では幸福感というものは精神的なものであるので、幸福とは物質的なものよりも精神的な幸福の方がより重要であると説いている。古来そのようなことが説かれているのにも関わらず私たち世間の最大の関心事は、物質に基づく幸福である。何故ならば、物質は我々の身体的な欲望を満たしてくれるからである。物質に基づく幸福のために、人々は日々忙しく動き回り、物質を貯蓄し、物質を享受して生きている。物質のなかでもより高価でより多くのものを持つことを豊かさであると思い込んでいる。言い方を変えるならば、残念なことに私たちは「お金に目が眩んでいる」「物質に目が眩んでいる」のである。本詩篇では、このような残念な私たちが資産を増大させ、物質に困窮しないためにはどうしたらいいのか、ということを自然に育っている木のありさまを考えることで説いている。いうならば仏教的な資産運用法である。
まずは生まれつき物質的豊かさをもっている状態というのは、それほどたいした者でもない、ということから説いている。どんなに立派な家柄に生まれても、利他のための資産もなければ、ただの普通の人とまったく変わらない。富や名声を得た者が、他者への思いやりをもつことも出来ず、自分には資産や名声がある誇示しているだけでは、普通の人から見たら煙たい存在なだけである。どんなに立派な木が空高く育っていっていても、その木が木影すらも作り出すことも出来ないなら、高く聳えていることはただ無用の長物である。
また資産を蓄積し増加させるだけで豊かさというものが実現する訳ではない。豊かさの源、すなわち本当の資本とは福徳であり金銭などではない。過去に布施などの善業を積んでいくことによって福徳を積み立てていくことができる。現在所有する資産に対する執着から貧しい者に施しをしたり供養をしたりすることに吝嗇し、資産の現状維持や増大のことだけのことを考えているのは、豊かさではなく、ただ貧しいだけなのである。これは樹木の枝葉が青々と茂っているその豊かさは、樹木の根元や芯の部分に水分や養分が充分にあることに依存しているものであり、もしもそこに必要な水分や養分が枯渇しているのなら、葉や枝をいくら水などで濡らしても枯れて干からびていくだけである。
また資金調達をして、基本財産を増やそうとしても、収益は疎か、最終的に元本割れしてしまう可能性の方が非常に高い。何故ならば、資金調達し事業拡大するということは、実は同時に返済利息などの債務が新規に発生し、投資家への配当契約、事業拡大に伴う経費の増大化、経常損失の増大などで何もしないより遥かに多くの支出が見込まれるからなのである。投資や起業に失敗する例は、成功例より遥かに多いのであり、成功例については多少美化して宣伝するので、悲惨な失敗例に関しても情報として広く流通しているものではない。
また誰にも役立たない巨大な資産というのは単なる無用の長物である。高い崖の斜面に生えているマンゴーがいくらどんなに美味しそうな果実を実らせていても、それを誰も収穫できないので、そんな果実が存在しようともしなくても全く同じなのである。これと同じように非常に吝嗇な大金持ちがいたとしても、その自分の財産を他人に与えて他人に役立ってもらおうとしない限り何の役にも立たないし、自らの資産に極度に執着して他者へと役立てようとしないのならば、その資産は単なる泡と同じように中身がなく、一瞬で消えてしまうようなものである。
それでは、資産を増大させたいと願うのなら、自己の所有物の一部を放棄することに励まなくてはならない。これは資産貧しい者ならば尚更である。自分が僅かでも持っているものの一部をより貧しい他者のために放棄することで資産をつくるための元手となる資本である福徳が増大し、その結果として、自己の資産を増大させることができるからである。本詩篇ではこれを観葉樹の葉を育てる時には先端部分を剪定することで、葉や枝の部分をより大きく育てていくことができるのと同じである、としている。
ジェ・ツォンカパ大師の命を受け、デプン大僧院を創設したジャムヤンチュージェ・タシーパルデン大師は、施主からの物品の寄進を受けた場合に常にその三分の一は諸仏への供養として仏像を建立し経本を開版するために使用した。また三分の一は常に病んでいる者たちへの医療福祉のために使用した。残りの三分の一は、常に僧院内の学僧たちの寝る場所や台所などの生活必需品の整備や弟子の育成費のために使用した。デプン大僧院ではこのジャムヤンチュージェ大師のこの生き様をお手本としてきたことで、チベット全土以外にも、中国やモンゴル、ロシアからも僧侶たちが常に途切れることなく求法の沙門たちが集まってくる世界最大規模の僧院となったのであり、今日チベットは中国共産党によって侵略されすべてを失い完全に支配下におかれてしまったが、インド政府の庇護を受け、インドに復興され今日でも世界最大規模の伝統的な僧院として機能している。
本詩篇のここでの数偈が説いているように、資産の元手、すなわち資本は福徳である。福徳とは利他のために善業を積むことによって、増資することができるのであって、それ以外の方法で増大できるものではない。そして資本である福徳の資糧を積み上げていくための最も簡単で重要な方法が布施なのであり、釈尊が六波羅蜜の最初に布施を説いているのは、それが戒・忍辱・精進よりも実践しやすいからなのである。本詩篇では増資したければ、布施を行じるべきであり、流動資産とはただ眠らせて、自己顕示しても無意味であり、利他のために惜しみなく使うことが最も重要な使途であるということを説いている。
「お金に目が眩んでいる」「物質に目が眩んでいる」私たちの殆どが、「他者のために」流動資産を使用することは、「余裕があるときに」できることである、と考えて、「自己のために流動資産を使用できること」を「豊かさ」であると錯覚しているのである。しかしそんな私たちがふと植物である木は自然に勝手に育っているのに動物である私たちはあたふたしなければ身体を維持できず、成長できないのが何故なのか、ということを考えてみると、どうしたらいいのか、すなわち資産を生み出すための資本とは福徳であり、他者のために流動資産を使用することが利益拡大・資本拡大であるということを教えてくれており、本当の豊かさとはどのようにしたら実現できるのか、その答えは既に釈尊によって説かれてある、ということを改めて教えてくれている。
