2025.02.17
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

真竹の弓

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第68回
訳・文:野村正次郎

知性や気力のある人たちは一人でも

上下すべての人の希望を叶えられる

真竹から打った弓はその一張ずつが

千本の矢を引くことができるように

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ものごとを正しく判断できる知性と、決して諦めず常に精進する人がいれば、たった一人しかいなくても、身分の高い人から身分の低い人までのすべての人々が望んでいることを実現できる。竹は芯のない樹木であり、ぐにゃぐにゃ曲がって使いにくい、節が多すぎて細工には適さないと蔑まれてはいるが、真竹から打った一張の弓は、千本の矢を引くことができるのである。

「発心とは、利他のために正等覚を求めんとする意志である」、これは菩提心の定義として頻繁に説かれる『現観荘厳論』の偈文だが、「利他のために」という意志は、不特定・無限数の衆生に対するものを指しているのであって、特定かつ有限の「あなたのため」に向けられる差別的な私利私欲の善意ではない。同時に菩提心が求める境地は、不特定無限数のすべての対象を如実に知る一切相智であって、特定かつ有限数の情報に対する表面的な理解のことではない。

特定の人々のために利益を誘導したいという意志は、対象となる人々を限定し、その集団に属さない者たちを排除する必要がある。この場合の他者はあくまでも限定的であり、対象者の心変わりや状況の変化によってはその人は利益の対象ではなくなる可能性が充分にある。たとえば親しい誰かのために何か善いことをしたい、と意志は、あくまでも親しい誰かのためなのであって、同じ人がある時精神異常などによって好ましくない発言や行動をしたり、完全に敵対してきた場合には、その人たちはもはや対象外ということになり、当初のその人のために何か善いことをしたい、という意志を貫徹することは困難になってしまうのである。

もちろん排他的で、特定の有限数の要望のための私利私欲な企画は、不特定多数の人々の利益を目指す公益的な企画に比較すれば実現可能性は高いかもしれない。しかしながら成果として得られる利益も排他的で限定的なものであらざる得ず、その効果も有限のものでしかない。これに対しあて、排他的ではなく。不特定無限数のための企画は、実現困難であることは当然であるが、成果として得られる恩恵も排他的ではないし、不特定無限数の無限の効果を期待することができる。

私たち大乗仏教を奉じる者たちが目指すのは不特定無限数の他者に対する慈悲であるし、不特定無限数の対象の認識であって、我執による構想に起因する私利私欲で排他的な他者に対する慈悲や特定の知識ではない。これは本偈の喩えに照らして考えてみれば、同じ真竹でつくった弓であろうと、はじめから引くべき矢を三本に限定しているようでは千本の矢を引くことなど不可能であるが、はじめから矢の本数を限定していなければ、その弓が壊れる限界までは何本でも矢を引くこともできる。

もちろん私たちのいまの生は有限であるが、これは弓が壊れて使えなくなっても、また同じような真竹の弓を準備すれば、続きの矢を引くことが可能であるように、今生では叶わなかったことも来世で続きを行なっていく、というのが仏道修行の基本計画なのである。私たちが特定の有限数の私利私欲を満たすためだけの生きるのか、不特定無限数に役立とうとするのか、何れの選択をしようと各個人の自由ではあるが、少なくとも大乗仏教の基本精神は後者にほかならない。

パルデン・ラモの眷属であるネーチュンは大きな弓をもち、仏法を学ぶ者たちの未来を守り続けている

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