樹がどんなに頭を垂れて敬っていても
鳥たちは糞尿を残して飛び去ってゆく
悪い連中にどんなに親しく接そうとも
いずれは不吉な跡を残して去ってゆく
悪者のためにどれだけ尽くしても
その見返りとして利益は望めない
樹がいつも火を育てて養おうとも
火は彼を灰と化すだけなのである
鳥は樹の上で休息し、その場所が安全で利用価値のある場所であると認識したら、再びそこを利用するために糞尿を残して飛び去っていく。それと同じように悪い行動・言動・思考をする時に私たちの側にいてくれて、一緒に道を踏み外してくれる人たちは、私たちに不幸の原因や問題を残して去っていくだけである。そんな彼らにどれだけ尽くそうとも、その見返りとして私たちの私利私欲が満たされるようなことは何も期待できない。何故ならば彼らは私たちを利用し、私たちを消費し、私たちを灰塵へと変えるために付き合ってくれているだけであるからである。
このようなことを考えていくと、通常の感覚であれば、悪人とは疎遠にし、善人とは親しく接した方がよい、と思うが、仏教はそのようなことを説いている訳ではない。しかしながらここでグンタン・リンポチェが喩えている樹と鳥の関係、樹と火の関係は、親しくもないし、疎遠でもないという関係である。樹は鳥のことを「お前は糞尿をかけて何とも悪いやつだ」と思っても仕方ないし、火のことを「俺を燃やすなんて何たる恩知らずだ」と不平不満に思って復讐したいと思って隙を窺っていても灰となってしまうだけなのである。
本書全体のテーマである樹は主人公であり、私たちは樹のように真っ直ぐと仏の境地を求めて育っていかなくてはならない。糞尿をかけられようとも鳥たちが舞い降りてくれば、「賓客」として迎えなければならないのであり、自分たちの生命や身体が害されようとも他者のために役立てるだけでよい、という感覚をもたなくてはならないのである。
悪い連中、敵である、としか思えない者に対しても、私たちを指導してくれる善知識であり、彼らに深い敬意と感謝をもって過ごさなくてはいけない、ということが利他の精神に基づく生きる姿勢なのである。
私利私欲である「鳥の糞害」のために、木をすべて伐採してしまうのなら、地球上には酸素がなくなり、荒れ野原となるしかない。私利私欲しか追求していない悪者だからこそ、彼らが喜ぶような分かりやすいことをして、彼らを利すことはそれほど難しくはないのである。天に向かって成長できる時にはできるだけ高く広く枝葉をひろげ、多くの鳥たちが舞い降りる樹となるべく常に精進しなくてはならない。そしてもはや成長が望めなくなった時には、火を維持するために利用してもたい、他者の幸せに役立てる灰となれるのならば、これほど良いことはない。ただじっと枯れていくよりは、薪となり湯を沸かし、暖をとる人たちの顔を照らし、笑顔をつくることができるのならば、何とも幸せなことではないか。ここの二偈ではそのようなことまでグンタン・リンポチェは教えてくれている。