木陰でずっと涼んでいるならば
象は樹を根絶やしにしてしまう
悪い家来や仲間と親しくすれば
為した善根さえも失ってしまう
野生の象は一日のうちの大半を食事に費やす草食動物であり、木の葉や果実だけではなく、木の枝や樹皮も食べ、一日の食事の量は数百キロともなる。しかるに暑い夏の日に木陰で涼んでいても、その樹を食べるために根から倒して根絶やしにしてしまうこともある。
同様に私たちは自分にとって何か目先の利益をもたらしてくれ、褒め称え、高評価し、快適に暮らせるための人間を好んで周囲におこうとするが、これはあくまでも世間の私利私欲の追求に過ぎず、自分たちのより多くの利益のために、他者を平気で犠牲にするようになり、せっかく自分が努力して積み重ねてきた善根やその善根に依って得られる善良なる者たちを遠ざけて、最終的には失ってしまうのである。善根は楽という果実をもたらすが、善根がなければ楽がもたらされることはなく、苦しみのみを結果として味わうということになる。
本偈の意味していることは、それほど難しい内容ではないが、悪い家来や仲間とは、その人柄や言動とは無関係に、私たちの側が何か悪いことをしようとするときに手助けしてくれる仲間のことである。悪いこととは具体的に何か、と言えば、仏教では身口意の十不善である。行動としては、殺生・偸盗・邪淫、言動としては、妄語・綺語・悪口・両舌、考え方としては、慳貪・瞋恚・邪見であり、これらの絶対的な悪業を行わないことが善業である。たとえば前世や来世は存在しない、因果応報や仏法僧という帰依処は存在しない、といった邪な考え方によって、愚痴や無駄話ばかりして無益に時間を過ごす相手は、私たちにとっては客観的には悪い仲間ということになる。この場合相手はこちら側に親愛の念をもって接してくれており、決して悪い人ではないかも知れないが、彼らをそのような活動の目的で私たちが享受していることで、彼らを悪い人へと仕立てているのは、私たち自身の方である、ということには注意して慎重になった方がよい。私たちが他人を断罪して、悪い家来や仲間であるとレッテル貼りをし、他人の所為で自分に不幸が起きたと思うことそれ自体が、自業自得の原則を全く理解していない邪見にほかならない。
本偈では悪い家来や仲間に例えられているのは、ただの木陰である。木陰が涼しい日陰をつくっているのは、その木を倒して根絶やしにしようとしている象のためではない。そして象もまた決してせっかく涼しく快適な木陰をつくってくれる樹を最初から倒そうとしている訳ではない。
それと同じように私たちに近づいてきてくれる他人も、決して私たちを破滅の底へと陥れようとしている悪人なのではない。そして私たちが他人と親交をもつこと自体は不幸をつくりだすためでもない。しかし私たちが彼らを私利私欲のために悪人、悪い家来、悪い取り巻きとして利用しようとするとき、私たちは彼らの善意をだめにして、自分たちの善根をも破壊し、自分たちの周りは悪人だらけとなり不幸ははじまってゆく。本偈はこのような木陰に涼む象の喩えを通じて、私たちが善根を破壊してしまわぬための慎重さと工夫の必要性を教えてくれている。