二つの果樹を掛け合わせるなら
第三の品種が誕生するのと同様
智慧ある二人が協力し合うなら
過去にない善き智慧が生まれる
悪い友と交われば、私たちは破滅へと向かうが、逆に善い友と交わるのならば、これまでには考えつきもしなかったような善き智慧が生まれる。「善き智慧」とは他者を利するための智慧であり、それは我々の周囲の者たちを幸せにする未来への希望となる施策である。
本偈が新しい品種の果物を開発するためには、二つの果樹を掛け合わせなければならないが、そのことによってこれまで誰も味わったことのないような新種の果物を産むだすことができるし、新しい美味さを作り出すことができるのである。これと同じように過去になかった「善き智慧」は、これまで私たちがひとりよがりに考えていたものでない、新しい幸せへの希望を作り出してくれる。その智慧は人と人との対立や競争から生まれるのではなく、互いに思いやり、協調し合い、真の利他主義から生まれるものである。誰かの幸せのために誰かが犠牲になる方策は「善き智慧」ではないのであり、「善き智慧」が目指している幸せとは、平等であり、絶対的であり、普遍的でなければならない。
そんな新しい智慧を作り出すことが、もしこんな自分たちだけの独りよがりの狭い料簡から生まれるのならば、そもそも三宝には「僧宝」というものも必要ないことになる。どんな時でも、ありきたりの幸せでは満足できない人たちがいるからこそ、どんな時でも、ありきたりの幸せではないものを提供する聖者たちの力をかり、未来は常に輝かしく明るいものとする必要がある。
しかるに自分たちの狭い料簡を乗り越えて、過去にはない、絶対的な善き智慧が起こるためには、善友や善知識たちと交わり続けなければならないのである。本偈は、そういった善知識への正しい師事の大切さと、陳腐な個人主義のもつ限界を同時に示唆してくれている。