修習方法のさまざまな分類を理解すべきである
空や四諦は把握形式の客体を形成して修習する
慈などのものは主体それ自体を起こし修習する
資糧道では根や力に対応した行相にて修習する
凡夫位では三智を証解と同種のものを修習する
一般的には八事を定義に従って考察し修習する
すべての勝者の三密は祈願の行相にて修習する
これらを応用し様々なものを理解すべきである
この偈は先日の法話会でゴペル・リンポチェが引用なされたグンタン・リンポチェの『現観荘厳論第四章要義』である。ここでは修習方法には、大きく分けると六種類のものがあるということを列挙しており、この偈文についてはダライ・ラマ法王猊下も道次第論の法話会でよく言及なさっておられる。ゴマン学堂では、ゴペル・リンポチェを含め『現観荘厳論第四章要義』をすべて暗唱するので、非常に有名であるが、日本では余り知られておらず、法話会でもすべてを触れることができなかったので、ここで参加された方々の復習に資するために、これらの六種類の修習法を簡単にまとめておこう。
第一の修習法は、空性や四諦の修習とは、ある知でそれらの対象を直接証解した後に、それを繰り返して思索し継続させることである。これは「甲は乙である」という命題形式の推理知によって一度確定可能な状態として、その推理の所証法である把握形式上の対象(乙)、把握している内容(乙)を繰り返し同種類の把握形式の対象として思惟しそれを反復継続することを意味している。
第二の慈悲や空の見解の修習とは、ある知をそれらの知と無区別な同体のものあるいはそれと相応しているものとして生成し、維持している状態のである。これは把握形式を再現することで思念している客体を再現するのではなく、主体である知そのものを再現し、そのまま維持する修習方法である。たとえば「慈」であれば、所縁としては「一切衆生」を対象とし、行相としては「幸せになりますように」と思う意識であり、「悲」であれば、縁としては「一切衆生」を対象とし、行相としては「苦しみから離れますように」と思う意識ということなる。
第三の修習法とは、如来の十二部教を現観する資糧道位の者たちの修習法であり、彼らは未だ凡夫位に過ぎず、信根・勤根・念根・定根・慧根という五根やその稼働状態である信力・勤力・念力・定力・慧力といった五力といった所謂三十七菩提道品そのもの功徳を獲得できていないが、五根や五力に対応する同一のそれに準じる行相を維持しようとすることによって、五根・五力などを修習する。
次に第四の修習法とは、資料道・加行道位などにいる凡夫には、一切相智・一切智・道智という仏位を現成した如来だけが有する三智は存在しないので、無常等の四諦十六行相の証解と同類の知を再現し、それを維持することである。第二の修習法との違いは、第二の修習法ではある知を再現できるのに対してこちらは再現できない状態ではあるが、それに準じる同種の知を起こそうとすることを修習することで獲得すべき目標とする知を志向している、ということになる。
第五の修習法とは、道が心に起こっていない向道位を実現していない、通常の私たちのような者たちの修習方法のことであり、この場合には、現観の八事七十義の各項目の定義・分類・範囲などをそれに基づいて分析し思考していることを指している。通常我々が仏教の教学を聴聞して、思索して確定したものを思い浮かべているものは、これにあたる。
第六の修習法とは、三世十方の如来たちの功徳を得たい、と何度も祈り願うことである。この場合には祈りそのものが修習ということになる。
現在法話会でリンポチェが解説されているように、そもそも修習とは、ある善なる対象を対象化してそれについての表象を持続化して維持していることにある。それには個々のものを分析して観察して考察する観察の修習と、ひとつの対象のみを対象化してそれを維持している止住の止住との二種類がある。この両者ともが決して結跏趺坐をして行わなければならないものでもないし、眼は半眼で開けておかなくはならないので、厳密にいうとキリスト教神秘主義が行うような瞑目黙想を行う「瞑想」ではない。近年は「瞑想」ということばが世の中では一般的であるが、「大根の桂剥きを通じて包丁の使い方を瞑想する」というと実に不可解であるが「大根の桂剥きを通じて包丁の使い方を修習する・修業する」ということは何らおかしなことではない。また仏道修行というのは、基本的には仏になるまで行うものであるので、第六の極楽往生の祈願をする称名念仏もまたある精神状態を持続させる営みであるので、これも修行であることには変わりはない。
ゴマン学堂の教科書では、修習にはこれ以外にその目的によって分類することが可能であるとしており、未だ得ていない功徳を得ることを目的とするもの、既に得ている功徳が失われないように増大させることを目的とするもの、罪障などが起こらないようにすることを目的とするもの、障害となるものの対策をすることを目的とするもの、といったものもあると言っている。
『菩提道次第広論』の法話会でいま学んでいるものは、基本的な一連の修習法の基本形である。それには『華厳経』普賢行願讃を使った礼拝・供養・懺悔・随喜・転法輪勧請・久住請願・廻向の七支分よりなる前行分、あらかじめ所縁の個数とその排列を確定しておいて実践する本行分・廻向よりなる結行分との三つの坐中の行法と、それ以外の時間にも無着菩薩の『瑜伽師地論・声聞地』をベースとした根門防護法、正知而行法、飯食知量法、不臥瑜伽法によって修行の継続法が説かれている。これらはすべて「瑜伽行」と呼ばれるものであり、「瑜伽」とは字義としては、精神を公正な状態に保持しておくことであり、決して身体的なポーズでもないし、「瞑想」と呼ばれるような狭い意味のものだけではない。またこれらの精神的な営為、すなわち「修習」「修行」「修業」と呼ばれるものは、決して特定の期間だけ行えばよいというものではなく、何阿僧祇劫にもわたって様々な生や身体を変え、衆生利益のため一切相智を実現し現等覚するその時まで継続していかなければならない。
このように一般に修習とは非常に広範囲の様々なものを表しており、それについて釈尊や過去の先師たちが様々な注釈を行っているが、「修習」の意味を矮小化して捉え、釈尊や先師たちのさまざまな教えは個別的には矛盾するものであり、我々ひとりひとりの人間にとっての重要な教えを表現したものであると思えない人々は、支那の戒師和尚のようにさまざまな間違った考え方をもっていることもあるので、それらをなるべく避けるように注意すべき必要があると、ジェ・ツォンカパは継承を鳴らしているのである。先日の法話会でも触れたように、シャーンティデーヴァも身体の健康を維持し、身体を保全し、清潔に保ち、栄誉不足にならないようにすること、つまり身体を健康に気をつけていることですらも「修習」であると表現できるように、「修習」とは非常に広大な意味をもち、またその期間も非常に長期間にわたるものであるということを私たちは学んできた。
日本別院には時々「修行体験みたいなのはやってませんか」「瞑想講座みたいなのは何故しないんですか」というご意見も寄せられるが、現在定例法話会を月に二回継続しているだけで、特別に何か「簡単にわかる!」というような講座などは開催していない。何故ならば、上記に述べたように、これもまた「修行」その者なのであり、リンポチェがいつも法話会でおっしゃっているようにこの善なる資糧は今生においても、そして来世においても私たちおよびすべての衆生の幸せの原因となるものであるからなのである。
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