2024.09.14
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

火の始末には御用心

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第64回
訳・文:野村正次郎

粗暴な二人が交じり続ければ

いつかは傷つけ合い破滅する

二本の乾木を擦り合わせれば

両方ともに燃え上るのである

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暴力的な人間が二人いれば、互いに協力して悪行を行うこともあるが、最終的には仲違いし傷つけ合い自他共に破滅していくものである。本偈はこのことを火起こしのためのアラニと呼ばれる乾木を擦り合わせて摩擦で火を起こした時、どちらか一方だけ火が起こり、どちらか一方には火が起こらないという状態があり得ないことに例えている。

他者を傷つけまい、他者に何か役にたちたい、この考えは善の思考法の基本形である。逆に自分だけは傷つきたくない、自分にだけ役にたつことがあって欲しい、この考えは悪の思考法の基本形である。悪の思考は暴力の源泉であり、それが最初はことばとして表明され、ことばでは足りない場合には行動として表明される。

この悪しき思考法をする人間は、他者よりも自分が大切であり、自分をまもるために他者が多少は犠牲になっても仕方ない、知ったことはない、そのように考える。彼らはきっと思うであろう。「みんな自分が大事である。自分をまもることは人間の生存本能なので、利己主義を追求して何も悪いことなどない」と。時には平然とこのようなことを人前で声高に語っている人もいるくらいである。このことばは実は語りかけている相手に対して暴力の行使の可能性の提示している。言い換えれば「私は自分のために、誰かを攻撃するかもしれませんが、傷つけても悪いことをしているとは思いません」という暴力の予告である。見た目には大人しそうな顔をしていても恐ろしいことを考え、恐ろしい発言をしている訳である。

暴力の行使の可能性を提示している人というのは実に多くいる。逆に暴力の炎を消化しようという勢力は非常に少ない。火の勢いが強くなると、そのままで濡れていて普通に燃え盛らないような木も水分が蒸発してそのうち燃えていくように、本来他者に対する思いやりがある人でさえ思いやりの水分が蒸発してしまい、そのうちに燃え上がってしまい、暴力的な発言をしたり暴力的な行動を行ったりするようになる。そしてその結果はただの灰土となるしかない。

仏教であれ、その他の宗教であれ、すべての宗教はすべてを焼き尽くしてしまう可能性のある火を消すための水である。人間が暴力的な思考をして危険な火遊びをしている限り、その側にはその炎を消すことができる水分が必要である。寒さで凍死しないように暖をとるため自分のために少しだけ火を起こしても、きちんと水で消化して次の場所にいけば大規模な山火事にはなることはない。燃えやすい煩悩をもっていても、煩悩が心に表面化しないように都度、他者への愛や利他の大切さを思うことで、人類の滅亡を防ぐことは可能である。

きちんと火の始末をしてまた違う場所に旅立っていけば、その枝を組み合わせて鳥たちが可愛らしい巣をつくり、小鳥たちを育てることもできだろう。暴力的な人間がお互いに火をつけて燃えて灰になってしまうことは自然な現象であるが、少しだけ未来の他の生物のために、きちんと消化してから旅路を歩み出す心の余裕とモラルが私たちには必要である。本偈はそんな単純で当たり前の大切なことを教えてくれている。


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