欠点は伝染しやすいものだが
功徳は伝染し難いものである
木で炎を強めるのは容易いが
川を分流させることは難しい
人と交わり、他人の悪影響というのは受け易い。しかしながら他人の良い影響というものは受け難いものである。良くない習慣も同じであり、さほど努力しなくても良くないことというものは簡単にできるものである。逆に良い習慣を身につけて良いことをすることは簡単にはできない。これは、乾燥した木を炎にくべて強火にするのは非常に簡単であるが、それを流れる川のなかに入れて支流に分岐させようとすると極めて難しいのと同じである。
人が悪いことに染まりやすく、悪いことをしやすいのは何故かというと、まずは我々人間が乾燥させてある木のように、そうなるための準備が整っているからである。気に入らないことがあれば火のように発火し、少しいいことがあれば大喜びし、さらにいいことがあれば拍手喝采を浴びながら歌でも歌えそうな気になる。乾燥した木で強火にするのは力のない人でも容易いように、外的な悪影響を受けるための準備が整っていることから、少しのきっかけ悪影響を受けることができるのである。
これに対して善い影響を受けることは困難である。乾燥した木で川の流れを変えるのが難しいように、まずは乾燥しているので川のなかに浸からないで浮力で浮いてしまうように、善いことをしようと思っても、普段から善いことをしていないので、強い抵抗で反発してしまうのである。悪いことをしようと思えば、一緒になって悪いことをする仲間は募りやすいが、善いことをしようとしたら一緒になって善いことをしようとする仲間は募りにくい。魚釣りをする仲間は募らなくても、海の近くにいけばいくらでも釣りをしている人がいるが、逆に放生を行おうとすると、わざわざそんなことをして何になるのか、だと抵抗する人がでるだろうし、放生を行うことの功徳を理解してもらうのはそんなに簡単なことではない。神社や寺院でお参りしている人より、博打をし、酒を飲んで宴会をしている人の方が圧倒的に多いのである。
善いことは行い難く、悪いことは容易いので、誰しもが悪い方向へと向くようになるのが世の常であり、これに抵抗して生きる勇気がなければ、菩薩行を歩もうとするのは非常に困難である。しかし善行や功徳は我々に本来求めている幸せという結果を生み出すものであり、悪行や過ちは我々に不幸な結果しか生み出さない。これらの原則を理解するのなら、不幸にはなりやすく、幸せにはなりにくいと言ってもよい。
乾いた木はまずはよく水に濡らせて重たくし、それを組み合わせて川の流れを分けることができるのなら、その先には畑ができ、多くの人々の暮らしが安定し、幸せな結果が待っている。それなりに準備をして、仲間の助けも借りることができるなが、どんなに激しい水の流れですら変えることはできるのである。悪友と交わるのをやめ、善友と交わるようにすべきであることは、仏道の基本である。善友はすべての功徳の源であり、善友のよい影響を受けるには、まずは私たち自身が善なる方面の準備をしておく必要がある。本偈が喩えとしている乾いた枯れた木は、いまの私たちのような枯れた心を表したものと思われる。