風任せに飛んだ木綿が落ち着くのは
山の頂きではなくただの窪地である
心の狭い人はあちこちを巡りめぐり
最終的には破滅の淵へと堕ちていく
木綿は木の先端に咲いた白い花がはじけたものである。真っ白なその花は無垢でとても愛らしく美しいけれども、少しだけ勢いのある風が吹いた時、軽いものはじっとしていることが出来なくて、すぐに風に乗って、ふわっと飛んでいってしまう。風に任せて綿はいろんなところに飛んでゆくが決して高く聳える威風堂々とした山の頂きに留まることなど出来ない。山の上には様々な風がひっきりなしに吹いており、元の木の先のように仲間もいないので、また飛んでいくしかない。せっかく山頂の方まで高く飛んだけれども、地面を這いつくばるように流されてゆき、もともと真っ白であった綿の美しさなどなくなり、泥で汚れだらけになってしまう。最終的には泥沼や湿気がある、暗く凹んだ窪みや岩陰に引っかかり、そのまま誰にも活用されることなく、綿の旅路は終着する。
人間も同じように生まれてきた時には、純真無垢で可愛らしい赤ちゃんであり、周囲の多くの人々に祝福されて生まれてくる。人間に生まれてきただけで価値があるが、そのうち世間の風が少しだけ強く吹いた時、世間の風に流されて、生まれてきて生きているだけではない、何かの余計な価値を求めてあちこちを彷徨い続けることになる。
世間の風にはその強さはさまざまであるが普通の風と同じように順風と逆風がある。
世間から目先の利益を得ることができること(利)、世間で有名になること(誉)、他者から高評価されること(称)、快適に過ごせること(楽)、これらの四つの風は順風であり、この順風に乗って誰しもが旅をしたいと思うものである。この風に乗っている時は順風満帆な人生ということになり、この風に乗っている人を世間では「上手くやった人」「成功者」「立派な人」と称えている。
一方で、世間には逆風もあり、順風と逆方向に吹いている風がある。世間からの目先の利益を得られることもなくなり(衰)、存在を無視される無名な存在となり(毀)、他者から低評価されるようになり(譏)、不快のうちに過ごさなくてはならなくなる(苦)。この逆風に乗っている人を世間では「下手をうった人」「失敗者」「落伍者」と蔑んでいる。
学校でも社会でもこの世間では、世間でできるだけ順風に乗れることを推奨し、逆風に乗ってしまうことを回避するように教えている。上手くやれば世間では「成功者」になれるし、下手をうてば「落伍者」になれる。世間の風は時には、厳しく時には優しいし実に気まぐれである。風まかせの人生は人任せの人生であり、世間でどうやって生き延びるのか、ということを気にしていくことにより、真っ白な木綿が汚れていくように、純真無垢であった私たちの心はどんどん汚れていく。赤ちゃん肌は皺だらけになり、最終的に世間で上手くやろうと下手をうとうと死体置き場にしか辿り着けることはない。人生は水の泡や稲妻のように一瞬にして終わってしまうものである。
仏教は世間の風にふらふらと任せて飛んでいって絶望の淵に堕ちていくだけの人生は無意味であると説いている。世間は有頂天から奈落の底まで様々な場所があるが、どの道を通っても世間の風に身も心も任せていてもいいことはない、ということを教えている。人任せに自分の居場所を転々としなくても、いまいるこの場所、この時間は最高の時であり、生まれてきて、生きているだけで如意宝珠よりも価値があるものを私たちがいま持っていることを再認識することから、仏道ははじまる。他人である世間にやさしくされることを期待するのではなく、自分がまずは世間や他人に優しくすること、吹いてくる風にただ乗るのではなく、狭い視点をすて、広い心をもち、自分が心地よい風の作り手となることを教えるのが利他の教えである。木の先端に咲いている綿の花のようにまずは自分がいまいる場所で、ここで出来ることを見つけなければならない。
世間の八風に流されて自分探しの旅をしても行き着く先は、自分の死体置き場くらいしかない。しかしそんな場所に辿り着くためにこの生を消費してしまうのは、実に無益なのである。私たちが辿り着くべき場所は、そんな辺鄙な場所ではなく、解脱と一切智の城市である。神々や人々からも祝福されて人間に生まれて、そして生きている意味、それは風まかせでふらふらと徘徊するのではなく、一歩ずつでもそのような地を目指して歩んでいくためである。私たちは風まかせ、人任せに飛んでいかなくても大丈夫である。本偈はこのことを教えている。