2024.09.01
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

森の中で育っても役にたつ

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第61回
訳・文:野村正次郎

賢者というものは別の場所にいても

大切にされるし重宝されるのである

森の中で育った樹が他所にあろうと

きちんと木の仕事をこなせるように

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深い森の真ん中で育った立派な木は、切り倒して別の場所に運ばれても立派な木として評価される。ちゃんと育っている限りその立派な木としてちゃんと大切に扱われる。

これと同じように人間もたとえ人混みのなかで注目してもらうために大声を出してもの珍しいことを言う訓練をしなくても静かに自分と向き合い、よりよい人間となれるよう、より物事を正しく見極めることが出来るように成長していけば、どんな場所にいようとも他人から大切にされ、重宝されるようになるものである。

森の中で樹もともと切り倒され、売り飛ばされて、誰かの自慢となるために育っている訳ではない。ただひたすら天を目指してまっすぐ育ってきたのであり、刃物で切り刻まれるために育ってきただけであるが、切り落とされて皮を剥がれ、もともとの威厳のある姿を失おうとも、何ひとつ不平不満も言わないでただひたすら梁を支えじっと何十年も何百年も、その梁の下に住んでいるさまざま人々を支え続けている。

これと同じく有名になること、金持ちになることを目指すのではなく、この苦しみの連鎖に自分と同じように苦しんでいる生きとしいけるものたちを何とかしなくては、そのためには一切衆生を苦しみがない境地へと導くことが出来る仏の境地を自分が実現しなくてはならない、と菩提心を起こした菩薩たちは、菩薩行を修行していくことで立派な人間になっていく。彼らもまた他の衆生に切り刻まれ、殺され、罵倒されようと、無視されようとも決して辛いと思うことはない。むしろ自分たちが他の人の役に立ってよかったなと思う広大な心を培ってきているのである。そんな彼らはたとえ自分たちの国の言葉しか喋れなくとも、別の国に行こうとも重宝され大切にされるのである。何故ならば彼らは自分自身のことよりも他者を優先しているからである。

如来や菩薩たちとはこのような存在である。彼らのことを感じられない人もいるし、自分勝手に利用する人も大勢やってくるだろう。しかし彼らがそれを不平不満に思うことなど一切ないのであり、どんな無礼をはたらく人にさえ、より一層慈悲の心を強め、そのような迷い悶え苦しんでいる衆生たちが自ら気づき、善き道へと向かいはじめてくれるのを待ちつづけてくれている。

日本のように木造建築の多い街に住んでいれば、この街の人たちの生活がどれだけ森の中で育ってきた無名の樹々に支えられていることは想像しやすいものである。この街の樹がもともと一箇所で生えていたとして想像してみるといまの私たちの日々が奇跡的な事象であることは明白なのである。同時に私たちの日常がどれだけの善意に支えられて成り立っているのかも想像してみるだけでも奇跡的な事象といっても過言ではないことが分かる。私たちが目指すのは、見せかけだけでなく、本当にどこでも誰にでも役に立つ樹であり、本当にどこでも誰にでも役に立つ人間である。本偈は、私たちの周りに身近にある木がそんなことを教えてくれているのを人間のことばで語ってくれたものである。

森のなかの木は育ちながら他者に役立つのは、菩薩が修行をしながら利他を行っているようなものであろう。

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