財力や権力が同じでも
善悪は所業から分かる
切口の太さが同じでも
元末は川に流せば分かる
植物は、根から吸収した水分や栄養を幹や枝を通して葉に水分を届けている者である。先端に近い方を末口と呼び、根に近い方は元口と呼ぶ。枝や丸太の太さが大体同じで模様も分かりにくく一眼見ただけでは元末が判別できない場合、川に流してみるとその元末を知ることができる。
これは外見上均一な木に見えても、もともと生えていた時の元末により、内部の密度や重さが異なっていることに因っている。重たい元口の方は密度も高く重いので、より深く沈み、そのことで流れる水の力を受けやすく、下流側を向きやすい傾向にある。逆に軽い末口は密度も低く浮きやすく、そのことで流れる水の力の影響も少ないため、上流側へと向いてゆく。
動物や人間は、植物のようにただじっとしているだけで生きていくための栄養素を吸収することはできない。生きていくためには行動をしななければ生きる糧を得ることもできないし、人間の場合には、様々な言動により他人の行動を促し自分自身で行動することを多少省略可能となる。行動や言動も意思によって発動するものであり、何の意思もないのに自然に行動することはないし発言することはない。行動・言動・意思は動物や人間の基本的な活動である。
この活動が幸福をつくりだす原因となる場合には、それを善業と呼び、不幸や問題をつくりだす原因となる場合には悪業という。善人と悪人という場合も同じであり、幸せをつくりだす人は善人であり、不幸や問題をつくりだす人は悪人である。より善い仕事とはより多くの幸福をつくる活動であり、より悪い仕事というのはより多くの問題や不幸をもたらすような仕事のことである。善や悪といったものは創造主たる神がつくりだしているものではなく、すべてはその所業を行う活動の主体の意思によって決まるものであり、幸福も不幸もこれと同じように人が作り出しているものである。
しかるに活動の基盤となる物質的な条件であれ、活動の主体の影響力である権力であれ、それらが善悪を決定しているものではないし、その結果である幸福や不幸を作用しているものではない。物質的に同じようなものを享受していても、幸福をつくりだす善なる人がいれば幸福は増えてゆくのであり、不幸をつくりだす悪しき人がいれば、不幸は増えていくものである。水に流した木の元末がどちら側を向いて流れていくのかを観察すれば知ることができるように、人が幸せを目指している善なる方向へと歩んでいるのか、あるいは不幸を目指している悪しき方向へ歩んでいるのかは、人の活動を見てみれば分かるのである。
植物は決して先端から根元に向かって逆さまに成長することはない。同様に人は幸福を目指している限り、善き方向に向かって成長していかなければならないのであって、悪しき方向を目指していることは不幸を生み出す方向を目指しているということになる。木材を柱として使う場合には天地元末を逆にしてはいけないのと同じように私たち人間も善悪の向きが逆さまになって活動しても上手くいくことはないのである。本偈は外見上すぐには分からない一本の枝にも向きがあるように、私たち人間も幸せを追求する限り、本来どちらを向くべきか、という向きがあることを教えてくれている。