柱である限り 白檀であれ杉であれ
梁を支えられることに変わりはない
志をもつ限り 豊かでも貧しくとも
活動ができる時間には変わりはない
高価な素材である白檀で作った柱であろうとも、安価な素材である杉で作った柱であろうとも、柱として張り巡らせる梁を支えることのできる能力には全く変わりはない。同様に私たち人間は志さえあるのなら、貧富の差はなく、活動できる同じ時間を誰しもが同じように持っている。本偈はこのことを説いている。
すべての人がこの世に生まれてきた瞬間から老いて死んでいくだけである。豊かな人もいるし貧しい人もいるが、何かしようとする時には、そのすべての人が持っている限られた時間は同じだけもっている。夏が暑い場所に住んでいる人もいるが、夏が寒い場所に住んでいる人もいる。同じことをやるのに経験が豊富であるために時間が掛からない人もいるが、時間を掛けてもなかなか出来ない人もいる。しかしこれらはすべて多少の個人差に過ぎないのであって、何か為すべきことが出来ないことをこうした個別の差異の所為にすべきではないのであり、貧しいので出来ない、豊かなので出来ない、若いので出来ない、歳を取ったので出来ない、というのはほぼそのすべてが言い訳に過ぎない。
梁を支えてくれている柱のお陰で我々は雨風を凌ぐことができるのであり、梁をきちんと支えてくれる柱がある限り、柱と柱の間に暮らす私たちは楽しく幸せに過ごすことができる。この柱は一本いくらできているとか、この素材が立派なので幸せであるということはないのであり、そんなことを自慢しても何の意味もない。それと同じように経済的に豊かであるから幸せであるということもないし、経済的に貧しいからといって不幸せであるということはない。多くの物を持ち過ぎて、それを所有することに時間を割いて豊かな時間を過ごせない人もいるし、殆ど立派な物もないけれども、豊かな時間を過ごすことができる人もいる。仏教では欲望には限りがないことを説いており、多くの物を所有することを追求すること、高価な物を所有することを追求することは小欲知足の精神に反すると教えているくらいなのである。
今日もまた1日は朝昼晩の24時間であり、1週間は7日間しかなく、1ヶ月は大体30日であり、1年は大体12ヶ月である。この時間は限られており、私たち人間は同じ時間を生きている。この限られた時間と人間であることをどのように活用して有意義に過ごすのか、それは志次第である。人間であること自体が如意宝珠よりも貴重で高価な価値をもっている。この限られた貴重な生を如何に過ごすのか、それは未来にどうあろうとするのか、どんな人間であろうとするのか、という志の力、私たちが描く未来への意思の力に依っている。志を実現するための時間はすべての人が平等である。
しっかりとした柱がある家はいい家である。しっかりとした志のある人がいる社会はいい社会である。粗末な素材で出来た柱であろうとも梁を支えられればいい。たとえ貧しい粗末な身体しか持たなくても、限られた時間を使い、他の人を支えられるのならば、それ以上のことはないだろう。日本には幸い「人柱」ということばがある。私たちは他の多くの人を支えることのできる柱になるべきなであって、ただ横たわった木材になるべきではない。本偈はそういう風情を教えてくれている。