心が狭くて性格も悪いのならば
長所があろうと役立たずである
根元が毒に浸かっているのなら
美しい花でも誰も必要としない
性格が悪ければ、その人にどんな長所があったとしても、本人にも他人にも誰にも役立つことはない。これは外面でどんなに美しい花が咲いていても、根元から毒性を吸っている花を愛でる人がいないのと同じことである。他人を思いやる広い心をもたず、常に嫉妬や競争心に満ちて、他人に攻撃的である悪い性格をもっている人間は、どんなに立派な地位や学識や長所があろうとも、誰にも必要とされることはない。彼らの周りにいるのは、同じく心根の狭い、性格の悪い人ばかりであり、徒党を組んで罪業を増長する者ばかりとなる。
本偈では、心の狭さや性格の悪さというものを毒に根元が浸かっている樹に咲いている美しい花に例えている。心の狭さや性格の悪さとは、仏教では貪・瞋・痴の三毒としており、その三毒から発生した様々な煩悩はそれが生じるだけで、心の平安を奪い、自他共に破滅へと導くものとすることには留意が必要だろう。これは本偈が説くように単に美しい花が見た目だけであるという話ではないのであって、その根の部分、心であったら心根の部分がどうなのか、ということが非常に重要であるということである。
仏典には「自分の体に喩えてみて、他人に危害を与えるな」という教えがある。これは自分が身体に危害を加えられるのが嫌であると思う限り、同じことを他者にしてはならない、という非暴力の精神を説くものである。自分を特別視し、他者を遠い存在とし、常に幸せを求めている同じ人間、同じ生物という意識を忘れてしまった狭い視野は、すべての破滅の根本原因にほかならない。
釈尊がまだ若くシッダールタ王子の時に、従兄弟のデーヴァダッタ(提婆達多)がアヒルを矢で射止めて宮殿に落ちてきた。この様子を王子はご覧になり、アヒルの矢を抜いて傷口を水であり、自分の膝の上で看病なされた。するとデーヴァダッタがやってきて「これは私のアヒルだから返せ」と言ってきたので、王子は「アヒルの持ち主は、このアヒル自身であり、彼に危害を与えようとする者が、彼の持ち主であるということなどあり得ない」と仰って、デーヴァダッタに決して渡さずに看病をなさった。アヒルの傷口はそのうちに傷口は癒え、また空に飛び立っていて仲間と合流することができることとなった。この逸話にもあるように釈尊とデーヴァダッタとの根本的な違いは、心根のやさしさとその広さにある。私たち仏教と関わるすべての者は釈尊のような方に従うべきなのであって、デーヴァダッタのような者に決して従うべきではない。
いま日本の夏はインドよりも暑い猛暑が続いている。しかしこの暑さは原子爆弾の熱線に比べれば大したことはないし、全身の皮膚が火傷し、ガラスが体中に刺さっている訳でもないし、矢が刺さっている訳でもない。もしもいま身体に矢が刺さり、全身火傷で皮膚が落ちそうで目玉が飛び出て落ちそうであれば、私たちはデーヴァダッタのように更に私たちを切り刻んで食べるような人に出会いたいだろうか。私たちはそのような者ではなく、シッダールダ王子のような人に誰しもが出会いたいと思うだろう。日本はいまお盆の時期である。お盆というのは貧しい者たちに施しをすること、他の生物への慈悲の心をもう一度思い出すための時機である。毒に根を張る役立たずにはならぬよう、本当の美しい花を人として咲かせたいものである。