2024.07.31
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

凡人の評価、神々の評価

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第56回
訳・文:野村正次郎

賢者は寂静処に棲んでいるとも

その高評は天が語り伝えてゆく

南方の山に栴檀は生えていても

その薫香は風が分け運んでいる

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南方世界には最勝なる山であるマラヤ山(摩羅耶山・牛頭山)という山があり、その麓には、純白色をした栴檀の樹が生えており、この栴檀のことを「牛頭栴檀」という。この牛頭栴檀は、最も勝れた香木であるが、殆どの人が実際には見たこともなく、ただ通常は牛頭栴檀に似た樹木の亜種である一般的な白檀だけを手にしたことがあるとか、一般的なものの香りを嗅いだことがあるだけで、牛頭栴檀は希少品種であるので、そのようなものが生息している可能性があるということだけくらいしか一般の人には知識がない。

この牛頭栴檀と同じように如来や菩薩や賢者というものは、人里離れた寂静処、森や洞窟のなかを棲家として、誰も訪れないような不便な場所で修行をしており、時折群衆のなかにやってくることがあっても決して多くを語らず沈黙を保っている。彼らは決して衆生を傷つけることもないし、自己の評判や名声のために何か自己表現をするわけではない。静謐のなかに暮らしている彼らは、俗世の誰かと向き合うことではなく、すべての衆生の心そのものと向き合っていることが重要なことであると考えている。彼らは自身では無名であることを気にしないし、俗世間では彼らの存在すら知らない者の方が多いが、彼の心を知る善法を好む神々たちは、その高評を語り伝えていき、その名声は三界に知れ渡っているのである。本偈はこうした気高き賢者たちの佇まいを牛頭栴檀の薫香に例えた者である。彼らの価値は神々たちが知っているのであり、一般に知られていなくても何の問題もない。

私たち仏教に関わる者のあるべき姿はこのような姿である。自分たちが何をしているのかは、特に世間の人々に知られて、世間の高評価を受ける必要はない。如来や菩薩、善を好む神々たちは煩悩に満ちた世間の人々よりも遥かに遠くを視つめる能力をもっているからこそ、私たちの営為のすべては彼らの視点に常に見つめられてある。私たちが今日という日をどのように生きていようと、今日という日をどのように終えていこうとも、この人生をどのように生きていようとも、この人生を終えどのように死んでいこうとも、仏眼や天眼が届かないところで私たちは生きている訳では無い。

私たちは自分たちを四六時中気にかけて助けてくれる訳でも無い向こう三軒両隣の人たちの評価ばかりを気にして生きている。誰からも相手にされない孤独に怯え、大して助けてくれることもない通りすがりの人たちの評判を気にして生きている。都会的な立派な家に住んでいるのを自慢したり、美味しそうな食べ物を食べていたり、素敵な洋服を買ったのを自慢したりしながら、煩悩に満ちた私たちは同じく煩悩に満ちたどうでもいい狭い世界だけの心の狭い人たちの評価だけを気にして生きている。しかしそんな生き様は実に愚かな生き様である。四六時中私たちのことを心配してくれているのは、如来や菩薩たちなのであり、私たちが何かいいことをしようと思えば助けてくれるのは人間ではなく神々たちなのである。牛頭栴檀や人里離れた寂静処に住んでいる賢者の姿を私たちは見たことはないかも知れないが、確実にそのような存在はある。これをまずは感じられる感覚を研ぎ澄ませていくことがまずは大切であるということをヒマラヤの賢者たちは教えてくれる。

ラダックのザンスカールの僧院長を終えてのんびり暮らしているゲンギャウ師(写真は最近ザンスカールを訪問されたシーサー作家のアマムさんが提供してくださいました)

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