杉の葉は火の中にくべるとも
その芳香は益々と燻っていく
勝れた人は傷つけたとしても
その偉大さが益々歴然となる
勝れた人物というのは決して傷つくことがない。彼らをどんなに傷つけようとしても、決して傷つけることができない。彼らをどんなに暴力で傷つけたとしても、彼らが報復してくることはなく、むしろ彼らの偉大さが歴然となるだけである。彼らをどんなに口汚い言葉で誹謗中傷しようとも、彼らは直接決して相手にして反論することもなく、彼らを讃える言葉は尽きることがなく溢れてゆく。彼らに対して悪意をもつ人たちに、彼らは常に深い慈愛と善意で接していく。この状況は深い森のなかで清らかな薫りを漂わせ、孤高に気高く伸びている杉や檜の葉が、たとえ幹から切り倒して火に焚べても、ただより一層清々しい香りを燻らせて清々しい香りを放つだけなのと同じである。
勝れた人物がどんな苦難でも乗り越えられるのは、逆縁を順縁へと転換させる思考法を身に付けているからである。彼らは凡人から見たら苦難であることをも歓迎し、困難なことを順縁へと転換させ、より一層その威風堂々とした佇まいを強化することができる。
勝れた人物たちは常に正しくあり、悪行を常に慎んでいる。意識は常に明晰で、誤情報に惑わされることもないし、不必要に憂鬱になることもない。為すべきことを正しく判断する知性をもち、互いに調和を保ち、特定の人物や集団だけを優遇して利益を誘導することはなく、第三者からは称賛されるのに相応しい状態を維持することができる。常に賛辞を受けている彼らの活動を称賛され、賛同され、善意の支援が寄せられて尽きることはない。彼らと関わる者は、常に良き影響だけを受けるのであり、その影響はさらに広がり興隆していく。彼らは決して驕り高ぶらず、常に精進し、他人を落胆させることもなく、どんな悪意でも内部分裂することはない。彼らは自己中心的な俗世間の人々からは超越しており、その全員が真実を現観している。
このような勝れた人々の集団は「出世間の聖者たち」であり、この世界で最も貴重な宝石のひとつであり「僧宝」と呼ばれ、すべての仏教徒が帰依の対象とするもののひとつである。そして彼らのなかでも一切衆生のそのすべての苦しみを引き受けることで仏位を実現しようとしている人々のことを「大乗の大僧伽」「菩薩摩訶薩の大比丘衆」と呼び、すべての大乗仏教徒が彼らを救済者であるとして帰依しているのは、そのような人々のことのことである。
この菩薩たちは、困難に直面した時、それはまずは自らを高める契機であると歓迎し、輪廻から解脱せんとする出離心を強くし、帰依処に対する信仰心を一層揺るぎないものとし、思い上がりや驕慢なる自己愛を排し、罪業に対する慎みをより強化し、善業に対する精進と有情に対する慈悲をより高めていく。この苦難をもたらそうすると衆生は、この私だけではなく、すべての衆生に様々な外的な苦痛を与える者である人あるいは魔物ではあるが、自分の母親であると考える。自分の母が自分に対して危害を与えることは他の衆生に対する加害行為よりも遥かによいのであり、自分はその苦痛を受けるのに十分な理由となる過去の業果をいま受けるべき時であり、自分が耐え忍んでいる限り、彼らもその加害行為をそのうち中断するようになり、自分自身がこれまで味わってきた快楽のそのすべては母親である加害者にすべて与え、彼らの苦しみや悲しみのそのすべては自分が引き受けようとする。他者に対して抜苦与楽を行えるのは、いまこの時であり、出来る限り、すべての衆生に対して苦しみを取り除き、安楽を与えるためにさまざまな国土に分身を化現させ、彼らの苦しみを取り除き、彼らの安楽だけを実現するように精進する。
このように苦境を道へと転換する方法を知っている菩薩衆をはじめとする勝れた人物というのは決して傷つくことがないし、疲れてしまうこともない。彼らは決して傷つくこともなく、疲れてしまうこともない菩提心という馬に乗って、幸せから幸せへと駆け抜けていくことができるのである。仏法が興隆し、如来の教えが常に続き、一切衆生のためにそのような勝れた人となろうとする菩提心を起こす人がいる限り、この世の未来はひとつずつ着実に幸せの輪が広がってゆき、たとえどんな悪意の人々が彼らを傷つけようとしても、彼らが傷つくことはなく、希望の威光は益々増していく。これが大乗仏教に関わる人たちの明るい未来像にほかならない。