2024.07.20
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

切り刻まれても失われない気高さ

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第54回
訳・文:野村正次郎

沈香木は百片に切り刻もうとも

自然の芳香を失うことなどない

勝れた人物は困窮していようとも

善き本性を捨てることがあろうか

57

勝れた人物はどんな逆境に立たされようともその善良な性格を捨てることはない。これは沈香の木をどんなに細かく切り刻み百の破片や粉末状にしても、その天然の芳香を失わないのと同様である。本偈はこのことを述べている。

菩薩を代表とする勝れた人物は、どんなに苦難に直面しようと、常に自分よりも他者を優先し、他者の利益を実現するための行動・言動・思考を維持することができる。彼らは一般人のように不平不満を語り大騒ぎし、右往左往して苦難を受け入れたくないと否認し、困難に立ち向かうことを厭うことはない。むしろ他人ではなく自分に困難な状況が起こっていることを幸いであると考え、他人ではなく自分に苦難が起こるように希望し、苦難を歓迎することができるのである。このような考え方が可能なのは、勝れた人物が他者への無限の愛と事実を正しく認識できる強靭な知性をもっていることに由来している。

勝れた人物が深刻な困難な状況に直面しても決してそれに動じないのは、まずは困難な状況に直面した時に、悲痛に咽び、時には怒りに狂うことが如何に無益なことなのか、ということを知っているからである。現在直面している困難な状況は、原因なくして起こったものではなく、原因によって起こっているものである。しかるに結果として起こっているこの状況を憂いても、問題は決して解決することがなく、今後も問題が起こらないようにするためには、原因となるものを生み出すことがないように今後注意を払いつつ、苦難を圧倒的に上回るよりよい現状をもたらしてくれる糧となるものを蓄積していくしかないのである。もしも現在直面している状況に過剰に反応し、否定的な態度を示すのならば、その否定的態度が契機となり、二次的、三次的な苦難を誘発する原因を作り出すこととなるのである。しかるに否定的な問題、苦難や困難に直面した時に最も大切なことは、それが起こった原因を正確に分析し、その原因を断つための努力を怠らないようにすること以外にはない。

「いまは大変辛いのでそんな正論や理想を振りかざされても現実には何かいいことなんて出来やしませんよ。」「とりあえず辛いことがあったので楽しいことをします」「あそこに行ったら癒されるって言われているので、癒しスポットを訪ねることにします」「私には問題が解決できませんがお金が沢山あったら偉い人に頼んで問題を解決してもらえるでしょう。宝くじでも当たったらいいな」というこれらはすべて問題を解決するための努力を怠る「懈怠」と呼ばれる感情にほかならない。問題の解決を先送りしても問題は解決しないし、問題を解決すること以外に努力しても問題は解決しないし、自分には問題が解決できそうにないので第三者に解決してくれないかなと甘い期待を抱こうとも問題は解決しない。これらは問題から目を背けようとすることに他ならず、こうした感情はさらに問題を大きくしていくだけなのである。

本偈は百片に切り刻まれても、芳香を失わない沈香木のように、勝れた人物はどんなに困窮しても善き性質を失わない、ということを説いているが、これは同時に、ほんの僅かな困った状況、ちょっとした苦痛であっても勝れた人物は瞬時にこうした考えを巡らせ、問題解決に向けて善資の積集に勤しんでいる、ということを意味している。もちろん生老病死の苦しみのように大きな問題もあれば、蚊に刺されて痒いとか、夏なので外が暑い、誰かに嫌なことをされる被害を受け、嫌なことを言われ心が傷つき悲しく辛い悲しい、などといったもっとちょっとした小さな問題や苦痛もある。

百片に切り刻んだ沈香木の喩えは、大きな問題や苦痛を乗り越えるためには、こうした小さな問題から苦難や問題に対処できる力を身につけるべきだということを教えてくれるものである。よりよい人生、より幸せな人生というものは、誰もが知っているように決して一瞬にしてやってくるわけではない。だからこそ百片に切り刻んだ香木のように、私たちは日々を小さく切り刻んで、小さな苦しみを乗り越えてゆくことで、より高い理想を実現することができるようになる。勝れた人物になるには日々の忍辱と精進の修行を着実に積み重ねるしかない。時を変え、場所を変え、肉体をも変えて、私たちはこの悠久の精進と鍛錬の時を歩んでいく。この歩みが薫り高い如来や菩薩たちといった大人への一歩なのであろう。

沈香は切り刻んだチップやパウダー状のもので少量でもとてもよい香りを放つ

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