下品な人物は王位に担ぐとも
非道な活動を推進してしまう
芭蕉は上へ上へと生えるとも
房を下へ下へと垂らしていく
芭蕉やバナナは単なる草であり、樹ではない。中身が空洞であり、実をつければ茎は枯れてしまう。他の植物と同じように日光を求めて上へ成長しようとするが、実際に房は下へと垂れ下がってゆき、果実を結ぶと枯れてしまい、年輪を重ねて立派に成長することは出来ない。
下品な人間は、他人のことは顧みず、目の前の享楽的な快楽を追求する。自分が得になるようなことにはすぐにでも飛びつき、短絡的で物事を長い眼で考えることができない。自己中心的で私利私欲ばかりを追求し、その結果悪業を積み続けてしまっている。そんな人物を、ある日突然高い地位や名声や権力を与えて担ぎ上げたとしても、その地位や名声に見合った相応しい行動をとることが出来る訳ではない。中身がなく、自己中心的な短絡的な思考から逃れることが出来ず、長期的な深慮遠謀を働かせて、周囲の者たちを巧みに導いてくことが出来ないからである。
芭蕉やバナナは芯がなく中身がないものを表しているが、これは私たちが中身もないのに、外面だけ立派になろうとすることに対して警鐘を鳴らす譬えとして本編でも用いられている。ただ私たち人間は芭蕉やバナナとは異なり、中身のないまま無為に過ごさざるを得ない、ということではなく、暇とゆとりのあるこの人身という如意宝珠よりも貴重な拠り所で、心を磨き、心を鍛えることによって中身を自ら作っていくことができる。
弘法大師も「夫れ、仏法遥かに非ず、心中にして、即ち近し。真如、外に非ず、身を棄てて何にか求めん。迷悟我れに在り。則ち発心すれば、即ち到る。明暗、他に非ず。則ち信修すれば、忽ちに証す。」と説かれるように、いまいま我々がもっているこの肉体で、精神を鍛えていくのならば、すべての衆生たちを利益することが出来る仏の境地は必ず実現できるものである。上へ上へ、外へ外へ、遠くへ遠くへと目指して生きるのではなく、まずは私たちにとってもっとも近い、この身体の内側にある心と向き合い、この心を制御し、心から言葉、そして行動へと移していくことが、無益な人生の日々を過ごすのをやめ、中身のある生を営むための基本的な方向性である。
バナナや芭蕉は大きな樹のように成長しても所詮中身のない草である。これと同じように地位や名誉、権力をたとえ持っていても中身のない人間は、何の役にも立たないし、周囲を破滅へと導いていくだけである。せっかく人間の顔をしていても中身がなければ外側からどんなに立派なを持ってきても、ちゃんとした人間とは言うことはできない。本偈はこういうことを教えている。