2024.04.24
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

眼にも見えない、姿形のない本物の功徳

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第52回
訳・文:野村正次郎

自然の芳しい香りを持たなければ

いくら白檀と語ろうと偽物である

勝れた人の法規に反しているのならば

勝れていると自認しても無意味である

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沈香や白檀などの香木は、その樹脂自体が天然の芳香を放ち、その芳香は何百年も継続して薫る。沈香の場合は、加熱しなくてはならないが、白檀は花・茎・葉・根そのものが芳香を放っている。沈香のなかでも特に香りの高いものは、伽羅と呼ばれ、その香木は大変高価なものであるし、偽物も多いが、日本や中国では栽培できないので、沈香や白檀の殆どは輸入に頼っており、白檀のなかでも最高級のものは「老山白檀」といい、現在ゲルク派の三大総本山が復興されチベット難民居留区がある、インドのカルナータカ州がその主要な産地である。

沈香や白檀などの芳香成分は植物が自然変異して植物の内部に出来ているものであり、外側から香料を加工して樹木に染み込ませたからといって、沈香や白檀となる訳ではない。これと同じように勝れた人となるために、外側から何か勝れた人物と言われる特徴を加工して合成したからと言って勝れた人になれる訳ではない。私たちが身につけるべき戒定慧の三学にしても私たちの心で学んでいくものなのであり、外面を取り繕うだけではただの思い上がりで自分は勝れた人物であると言っているだけで実際には何の役にも立たないということを本偈は教えている。

白檀などの香木には、所謂「香十徳」という周囲に与える影響が有名であり、感覚を神々のように研ぎ澄まさせ(感格鬼神)、肉体と精神を浄らかにし(清淨心身)、煩悩や精神的な障害を取り除かせ(能除汚穢)、眠気を解消し(能覺睡眠)、静けさや孤独のなかでも良き友となり(静中成友)、どんなに瑣末な日常に忙しくしていても、そこに長閑なゆとりを与えてくれ(塵裏偸閑)、何度それに触れても決して飽きてしまうようなこともなく(多而不厭)、大量に数がなくても充分な満足感を与えてくれ(寡而為足)、長期間決して変わってなくなってしまうようなものではなく(久蔵不朽)、いつもで決して邪魔になるようなものではない(常用無障)。

これと同様に勝れた人物が他人に与える効果とは、具体的には仏の境地へと近づかせてくれ、如来たちにもその人と交わっている人たちを歓迎する人としてくれ。勝れた人と交わっている人は、劣悪な人と交わることを少なくさせ、死後も地獄や餓鬼や畜生道に堕ちてしまわないようになり、罪業や煩悩に振り回され、煩悩に屈服しなくなり、利他行に反する私利私欲の活動を自然と行わなくなり、周囲の人間も様々なよい性質が自然と身に付くようになり、当面希望していることは叶いやすくなり、最終的には仏の境地に達して無限の衆生たちを救済できるようになる、というものである。これらの善知識への師事の功徳は先日もリンポチェが『道次第広論』の法話会で教えてくださった通りである。

香十徳にしても善知識への師事の功徳にしても、先ずは私たちにそれを感じる力がなければ、その影響を受けることはできない。昔は国家の宝物として朝廷に献上されていた香木も今日では廉価で毎日線香を炊いて同じ効果を私たちは感じることができる。遥か遠くのチベットから、その地で「宝石のような貴重で特別な人」(リンポチェ)と呼ばれている方々に、こんな島国の日本でも私たちはいま触れることができる。

どんなに立派な香木を炊いていても、「ああ今日は何かいい匂いがするね」で終わりやり過ごしてしまう人もいるが、しっかりとその香りを嗅ぐために嗅覚を研ぎ澄まし受け止めて、香十徳のようなよい影響を感受できる心の豊かさを本当にもっている人もいる。チベットの社会ではどんなに尊敬されている方を日本にお招きしていても見向きもしない人もいるし、ダライ・ラマ法王猊下が広島に来られても「遠く外国の宗教の有名な人が何か来られたそうな」と思ってそれだけの人もいる。しかしそうした人の一部には、「観音菩薩の化身」と呼ばれる人に触れ、十方三世の如来の大悲心が人間の姿をとって現れるということはどのようなことなのか、と思いを巡らせ、世界平和とは一体どのようなことなのか、人間であること自体がもっている価値とはどのようなものなのか、よき心を培うということが如何に大切なのかを感じ、自分を見つめ直すきっかけとして下さる人もいる。

香りの十徳にしても、勝れた人物の功徳にしても、形や姿がないものである。どんなに言葉を重ねたからといってそれを正確にひとことで表現することも困難である。それは感じる側の感覚の力を必要とする。

薔薇の匂い、白檀の匂い、伽羅の匂い、シトラスの匂い、サフランの匂い、といったものを言葉で表現するのは難しいし、値段を付けたからといってそれはその匂いそのものを嗅いでみることとは全く違うことである。まずはそれが同じ場所、同じ空気を吸い、落ち着いて感覚を研ぎ澄ませてみてはじめてその功徳を実体験できるようになる。これと同じように仏教というのも、それが守られてある場所、それが空気中に音声として共鳴し漂っている空気を吸い、その声に耳を傾け、落ち着いて心を研ぎ澄ませてはじめて如来のことばを感じることができるのであるし、その声にじっと心を傾けていることで、私たちがどうしたら良いのか、どうしない方がよいのか、ということに聞いていくことができる。

幸いに釈尊が来られたこの地球上は釈尊が来られた時からそこまで変わっていない。人は生まれ。人は老いてゆき、病に苛まれ死んでいく。人々は私利私欲で争い、私たちは自ら問題を作り出し、その自ら作り出した問題で不必要に苦しんでいく。そんな中でもただ無益にやり過ごす生を送るのではなく、どうやってここをうまく生き抜いたよいのか、どうやって幸せになっていけばいいのか、それを釈尊が説いてくださったものはいまも私たちに生きたメッセージとして残っており、釈尊たち、そして十方三世の如来たちが供養されるのと同じ白檀や沈香の香りを静かに聞くことができる。市井の人たちを騙して「偽物の勝れた人」になって正体が暴露されないか不幸になる必要はない。私たちが自然の突然変異を起こし心の門を開くことで、開かれた門からその芳香や妙法は私たちの心に入ってくることができる。日本には幸い「香道」と呼ばれるものもあり、ひとつの香りを聞くことを通じて、私たちの心を成長させ、真の自由へと解放していく文化も現存している。本偈は眼にも見えない、姿形のないものを感じることの大切さ、そしてそのような営為が目指すこの道の先が何なのか、ということを教えている。

沈香の苗木

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