判断する智慧の力がなければ
立派な地位すら愧の素である
恐ろしい獅子も木彫りならば
怖がろうとも何の意味もない
私たちの殆どは、自分たちの名前や肩書きに相応しい人物であるという訳ではない。「人間」というこの素晴らしい境涯に生まれきていても、「人間である」ということの価値を充分に認識していないことも多く、また「人間らしさ」を持ち合わせていない場合も多い。外に出掛ける時、他所行き格好で出掛けても、心のなかは煩悩の三つの毒素で汚れ切ってしまっている場合の方が多い。この世界の住人であるにも関わらず、他には誰も住んでいないかのように私利私欲を追求し、人間の仮面を被った非人間的な体裁に甘んじている。
それでも日々を生きてゆかなければならないし、日々他の人に接して生きてゆかなくてはならない。立派な名前や肩書きがあっても、それに相応しい人物とは言えないので、私たちは常に他人に申し訳ない、他人に恥ずかしい、という感情を心の奥底にもっている。様々なことを学んでいるようで実際には何も学んでいないのと同じであり、毎日行うさまざまな判断も、本当に為すべき選択をして、辞めるべきことをきちんと排しているという訳でもあない。他者を原因として自分の不甲斐なさを恥じ入っている感情、これが「愧」と呼ばれる感情であり、もちろん必要以上に自己を卑下する必要はないが、「愧」と呼ばれるは自分を慎み深い人間にしてくれる善なる感情のひとつである。
実際に立場や地位や名声や権力に相応しい判断力をもって人はどのくらいいるのだろうか。何も対して知らないで、何もきちんと判断できないまま、他人に何かを命令したり強要したり、他人に何かを教えてあげる、といった自分の偏見や身勝手な意見を他人に押し付けている場合の方が多い。本当に他人に役にたつ教えとは、日用品を購入するためだけに東奔西走して苦しみを増やすだけである所持品を増やすための教えではないのであり、煩悩に悶え苦しみ迷ってしまわなようにするための判断力を身につけるための教えなのである。
どんなに威張っていても、木彫りのライオンは怖くはない。同様に立派な名前、肩書き、地位や権力をもっていても、正しい判断能力をもたないのならば、格好だけである。たまたま得た立場や肩書きや地位を利用し立派そうな発言をし、大層な振る舞いをしていても、内実がなければ只々威勢のいい粋がった見掛け倒しの人がお為ごかしでごちゃごちゃやっているだけとなる。
仏教徒である私たちにとって私たちがもっていないといけない内実とは、すべての衆生に対する慈悲心と一切法を正しく弁別する智慧の二つである。慈悲の力はすべての敵を降伏させ、正しい判断力は自他ともを幸せにする力をもっている。求道者は心のなかでこの誰にも奪うことができない力を培わなければならず、木彫りのライオンではなくて本物の百獣の王たる獅子にならなければならない。
如来たちは「人間のなかのライオンたち」(人獅子・人師子)と呼ばれている。仏教徒の正しい寝る姿勢は、寝るように右脇を地につけ横向きになってライオンのように寝る姿勢であり、ライオンたちと同じように、何にも恐れることはなく、威風堂々と落ち着いて佇まいをして、人間の仮面を被った人間ではなく、きちんと人間としての振る舞い、発言、考え方を自分自身で律し、非人間的なものであることをやめ、まずは人間のなかの人間、そして人間のなかのライオン、即ち仏の境地に近づいていくことが仏道を学ぶということなのだろう。