生まれつき徳をもってないのなら
外面を繕って何か意味があるのか
枝葉すらもないような枯れた木に
宝冠で飾ったから美しくなるのか
人の徳というものは、人の外面ではなく内面にその所在がある。私たちの幸福も不幸もすべては心に現象なのであり、それは物質ではないので形があるものではない。心に起こる現象を物質化して表現することはできても、それらはあくまでもひとつの表現に過ぎないのであって、心の現象そのものではない。「今日の楽しい気持ちを10段階のうちの3しか楽しくありません」と数値化して表現はできるが、一時間後には、もっと楽しくなったり、もっと楽しくなくなったりする。毎日8くらいの楽しさで過ごしているかもしれないが、もっと楽しいことがあった場合には、その8が3くらいに感じるようになることもよくあるのである。
私たちは心の現象が内面に起こる現象であり、外面に起こる現象はその契機に過ぎない、ということを普段はそれほど気にはかけていない。殆どの人は小さな時から、社会生活を送るようになり、他人に評価され、他人に行動を制限される。他者からの評価が自分の価値である、という偏見を学ばなければならなくなり、その学習効果として、自分というものが外にどのように映っているのか、自分というものが外側からどう取り扱われているのか、私たちの殆どがそんなことばかりを気にかけて生きるように強いられる。もともと大した功徳も持ち合わせていないような私たちが外面ばかりを繕って生きていても意味がなく、それは枯れてしまっている木に宝石でできた冠を被せて装飾しているような虚しく無意味なことである、と本偈は教えている。
人が内面に眼を向けず、外面の体裁ばかりを気にしていることは、決して驚くことではない。『般若経』の密意を追求し、弥勒の法である『現観荘厳論』を兜率天からもたらした無着菩薩でさえ、弥勒成就のために洞窟のなかに籠り、何度も挫折を味わいながら、最終的に弥勒菩薩に見えることができまでに十二年もかかった、といわれているのである。無着菩薩ほどの大人物でもそれくらいの時間がかかった位であるから、私たちのように、そもそも常日頃大した実践も行わず、ただ無益に時を過ごし、ただ外面を取り繕うことばかりに囚われて生きている場合には、無理もないのかも知れない。しかしながら、何某かの仏縁を幸運にも持っている私たちは、ここにいまこうしている限り、外面の体裁を飾ってばかりいるのはなるべくやめ、心のなかを常に清潔に保てるようにすべきであろう。
ダライ・ラマ法王猊下をはじめ善知識の方々は法話や法要の際にいつも「私たちが何かみなさまの心に役立つことがあれば幸いです」と私たちとコミュニケーションを取ってくださっている。このコミュニケーションは、分たちの「心に役立つ」ということがどういうことなのか、という意識がわたしたちの側になければ成立しない。幸いなことに無始以来継続するこの私たちの内面は今生だけではなく、仏の境地にいたるまで、無限の功徳を獲得して発展していく未来の可能性をもっている。老いてゆき、死んでいく、というこのことはあくまでも非常に短い一期で終わってしまう外面の問題に過ぎない。内面の継続性に眼を向け、これから先の長く明るい未来を志向する視点こそ、太陽の親戚である釈尊の教えである、ということを本偈は教えてくれている。