2024.01.21
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

実りある謙虚さとは

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第49回
訳・文:野村正次郎

あらゆる功徳をもつ賢者なら

慢心せず穏やかで律している

重みのある実りある樹ならば

穂先で頭を垂れて佇んでいる

49

功徳をもっていない人たちは

高慢で頭を反らせ背伸びする

果実を実らす養分を吸収せぬ

高い木が固いのは事実である

50

徳のある人間とは、自己を過大評価することなく、正しく客観的に見つめることができる人間であり、さまざまなことに一喜一憂することなく、落ち着きがあり禅定を実現しており、自らのもつ煩悩をコントロールできている人間のことである。徳のある人が社会的に優位な立場にいることもあるが、社会的にはそれほど優位な立場にないこともある。たとえば人間は動物に比べて生物全体の社会的には優位な立場にあるけれども、穏やかに暮らしている慈悲深い動物よりも残酷なことをしている場合もある。人間の格好をしていても、穏やかな動物以下の人間がこの世には大勢いるように、神々の格好をしていても、人間よりも酷いことばかりをしている残酷な悪魔のような存在である修羅たちの世界もある。人間社会のなかにもこれは同じことであり、物質的には豊かであり、主導的な立場にいる人でも、徳のない人という者も大勢いるものである。

ここの二偈では徳があり他者に利益をもたらすことができる人物は、重みのある稲穂のように頭を垂れており、逆に徳がなく他者に利益をもたらすことの出来ない者たちは自分を現実よりも価値が高いものと見せるために、必然的に高慢になっている、ということを、果実を実らす果樹が低木なのに対して、果実を実らすことのない針葉樹が芯も固く高木であることを述べている。自我意識を制御している徳のある人物は穏やかで柔軟性があるが、逆に自己中心的な自己を課題評価している人物は柔軟性がなく、融通が効かず、頑なである、とも読み込むことができる。

我慢・慢心というのは、生来の自己である我への執着、あるいは自己の延長線上にある自己所有のものへの執着という「有身見」で構想したものを過剰評価する意識のことである。この我慢・慢心は敬う気持ちを失わせ、苦しみや問題を起こしてしまう基盤となる意識である。

我慢・慢心には、七種類があり、自分との対比により他者が劣っているという事実がある場合に、自分の方がはるかに優れている意識を起こしたり(慢)、自分と同程度の者と比較し、自己の方が優れていると錯覚してしまう意識を起こしたり(過慢)、自分よりも優れた人がいる場合に、その人よりも自分は優れている部分があると必要以上に錯覚してしまったり(慢過慢)、この身体や精神の集合体に過ぎないものを、唯一無二の他の何にも依らない自己であると考えてしまったり(我慢)、まだ得ていない徳もすでに自分は持っていると錯覚してしまったり(増上慢)、自分よりも圧倒的に優れた人物をみて、自分の方が劣っているがそれは少しだけであると錯覚してしまったりする(卑慢)。あるいは徳とは言えないようなものを自分の長所であると錯覚してそれを過大評価してしまったりする(邪慢)。こうした七種類の慢心は、龍樹の『宝行王正論』や世親の『阿毘達磨倶舎論』にも説かれ、我々が必ず避けなければいけない驕慢な精神状態なのである。

我慢・慢心を抑制するための対治、すなわち対抗策としては、仏法僧の三宝を身口意で礼拝することや、それらの無限の功徳を考えることなどが仏教では説かれているが、自分を卑下したり自己の能力を過小評価することは、我慢・慢心の対治ではないことには注意が必要であろう。自分には能力がないので出来ない、自分はいま時間がないので出来ないというのは懈怠の一種であり、これらは我慢・慢心を抑制するどころか、煩悩の一種であるので却って様々な問題を起こし、不幸の原因をつくってしまうので、注意が必要となるだろう。

我慢・慢心を抑制するために、虚心坦懐で、常に謙譲の心をもち、自分が接している一切衆生は如来や菩薩かも知れない、と自分の判断力を過信しないこともなどを継続的に思えることは、善業の積集であるので、その結果は幸福である。しかるにそしてそうした感情を常に心に忘れないようにし、慢心から起こる問題を最小限に抑えるように心がける必要がある。

私たちは何の果実も結ばない針葉樹のように高く聳え立つことを目指して生きるべきではない。それよりも常に頭を垂れ、低姿勢で慇懃無礼であるが、周囲の人々にも好まれ、実り多き甘い果実をもたらす果物の枝や稲の穂のような人物であることを目指すべきなのであろう。

ご法話の前に法座に五体投地されるダライ・ラマ法王猊下(2010年・広島)

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