外側と内側と熟しているかどうかで
菴摩羅の果実も四種あると説かれる
人もまた心と活動とのこのふたつが
浄らかであるのか否かで様々である
「菴摩羅の果実」とは英語のマンゴーを表すサンスクリット語「アームラ/アムラ」を音写したものである。マンゴーは釈尊の故郷インドの代表的な果物であり、現在全世界の4割のマンゴーはインドで作られている。仏典はインド起源のものが多いのでマンゴーは仏典によく出てくる果物たるといってよいだろう。
マンゴーは外側の外皮の状態と内側の熟成度などによって、外側は熟しており、内側も熟している状態、外側は熟しているが内側は熟していない状態、外側は熟していないが内側は熟している状態、外側も内側も熟していない状態という四種類がある。もちろん外側も内側も両方ともが熟している状態が、果物として生で食べるのには最適であるが、外側は緑色でまだ熟してないが内側はある程度熟している状態に近いものは、収穫して流通するのには適しているし、その状態でインドではさまざまなスパイスとともに料理として利用する場合もある。
これと同じように人もまた、その心と行動・言動などの活動の両方から、心が清らかで、活動が浄らかである人、心が清らかであるが活動が不浄な人、心は不浄であるが活動が清浄である人、心も活動も両方とも不浄な人、というように四種類に分けることができる。
浄らかかどうか、ということに関して、まずは心に関しては善心・不善心つまり、煩悩によって動機づけられている精神状態なのか否かということで判断することができる。具体的には、善心には、信・勤・捨・慚・愧・無貪・無瞋・不害・軽安・不放逸などの善なる心所があるし、逆に不善心つまり煩悩には、貪・瞋・癡・慢・疑・悪見といった六根本煩悩や、忿・恨・覆・悩・嫉・慳などの随煩悩があり、善なる感情が優勢の場合には、その心は浄らかである、といえるし、恨らみや嫉妬などの不善なる感情が優勢の場合には、その心は浄らかではない、と言わなければいけない。
また心と共に人の浄・不浄を決定する要素として本偈では、行動・言動・精神状態といった活動に関しても同じく十善・十不善の善業・悪業を考えてみると良いだろう。他人の所有物を譲渡されてもないのに勝手に自己専有物にする偸盗や、特定の人物や衆生のことを誹謗中傷したりする発言をしているのは、活動として浄らかではない、つまり汚らしい汚れ切った活動ということができる。
また本偈では人を分類する基準として、マンゴーと同じように、外見と内側、つまり外見と内面という項目を立てる訳ではなく、心とそれを動機として発生する活動との二項目で判断できるとしている点には注目すべきだろう。通常我々は身体と心、外見と内面という二つの価値判断のための評価点を考えている。通常は身体的な特徴や外見、そしてその人の行動や言動によって人を判断しており、内面は表面化している訳ではないので、まずは外面、そして内面をという順番で評価を下している。
しかしながら、そもそも人を評価する際には、外面という考え方そのものを採用せず、まずはここでは内面の状態、つまり精神状態、そしてその上で、それが表面化していない精神的な活動・それが言語化した言動・さらには身体を利用して外面化した行動を合わせた身口意の活動を評価していくという順番で評価している。
私たちの通常の考えでは、まずは第一印象などの見た目がどうなのか、さらにそれに付随して、名声や所属などといったその人の身体に付属する情報、さらに社会的にどう映り思われているのか、という社会的な評価などが加算されていくのであり、その人が心やさしい人かどうか、ということは、不確定要素も多いので、人物評価の基準とはなりにくい。これに対して本偈のような順序で考えてみると、人間の評価をするのにまるでマンゴーなどの物質を評価するように評価するのが不適切であるということが分かるであろう。衆生・有情・人と呼ばれるものは、まずは心がどのような状態になっているのか、ということから考える必要があり、時間とともに劣化する容姿や外的な小さな違いよりも、心とその心によって表面化する業の方が重要である、という考え方に基づくものなのであろう。しかるに私たち仏教徒にとって、まず関心をもたなければならないものは、私たち自身の心の状態なのであり、そしてその心の状態によって、どんなことをしようと思い、どんな発言をし、どんな行動を起こそうとしているのか、ということに他ならない、ということになる。
仏教は、内教・内法・内道とも呼ぶように、通常私たちが外面の事象によって人の中身を判断しようとするのに逆行して、自らの心を培って成長させることによって、自らの精神状態・言動・行動を制御する方法を実践する宗教である。いま私たちがもっているこの有暇具足の人身は如意宝珠よりも価値の高い最高のものである、ということは同時に、私たちの心の外側にあるすべての物質や現象は私たちの心よりも価値が低いものである、ということを表している。私たちを人間たらしめ、その価値基準は、私たちの心そのものにあるのであり、その心がどのような外面的な表出をするのか、という活動そのものが私たちの価値を決定する。本偈はマンゴーの果実の皮を食べても苦いだけでマンゴーの価値は中身の熟成度にこそあることに喩え、人間の価値が心の内面の浄らかさとその発露にあるということを教えてくれている。