主人は良くとも周辺が悪いのならば
彼の元へと親しみ近寄るのは難しい
危険な毒蛇たちに取り囲まれている
栴檀の樹に誰が寄りかかるだろうか
私たち仏教徒は釈尊を師と仰ぎ、さまざまな師に仕えて行動しているが、経典などにも明らかなように舎利弗尊者や阿難尊者といった釈尊は仏弟子にも恵まれていたのは、周知の通りである。非常に重要な示唆に富んでいる。これは釈尊だけに限った話ではなく、広く他者を利益される活動をする人物は、周囲の人間にも恵まれているし、私たちもまたそういった勝れた人物の周囲の人間であるのに相応しい行動や言動をしなくてはならない。
先日もゴペル・リンポチェの定例法話会で紹介されたように、阿難尊者は釈尊の身の回りのお世話をする侍僧として任命された時に、釈尊がお召しにならない衣を着用させることがないこと、釈尊が残された食事を頂かなくてはよいこと、用事があるときにいつでも釈尊のお側に行かなくてはいけないという状態をしなくてよいこと、という三つの条件の許可が下りてはじめて釈尊のお側でお世話をさせていただくことを承諾した、とジェ・ツォンカパはポトワの言葉を引いて紹介していた。今日でもデプン・ゴマン学堂で僧侶たちは高僧に接する時にも、立ち居振る舞いから話し方まで、敬意を持って接する行儀作法は徹底しており、師弟関係は大変厳しいものがある。
主導的立場の人間は、自分の周囲にどのような人物を配置しておくのか、ということは極めて重要である。自分はどんなに立派で他人に対して誠実でやさしく接しようとしても、自分の配下にいる者たちが私利私欲に満ち、粗暴な行動や言動ばかりし、特定の集団や人物に対してのみ利益を供与しようとし、あるいは特定の集団や人物を排除しようとする者が周囲にいるのならば、たとえ主導的な立場の人間がどんなに立派な志であっても、近寄りがたいので、その集団が主導者の思う通りの志を果たすことは困難である。この状況は、ちょうど猛毒をもち、すぐに咬みつくような恐ろしい毒蛇に囲まれている栴檀の樹には誰も近寄ってこないのと同じである、と本偈は教えている。
私たち仏教徒は、釈尊という偉大な主人に仕えている者である。この意識を常に忘れることなく、本偈の内容を考えてみるのならば、釈尊という偉大な主人の周辺にいる私たちが常に現世利益のことばかり考え、釈尊という偉大な主人の教えを振りかざして、仏教を虎の威を借りる狐のように扱うべきではない。まずは私たちひとりひとりの個人が、釈尊との精神的な関係を見つめ直し、常にどのようにあるべきなのか、そしてどのように生きるべきなのか、その指針は釈尊の教えのすべてに既に明らかにされている。もしも私たち仏教徒や宗教に関わる者たちが、非科学的な信仰を盲信している輩たちが徒党を組んでいる恐ろしい毒蛇に囲まれた樹のように周囲の者に見えるのなら、それは釈尊や仏教のせいではなく、私たち釈尊の教えを奉じている者たちがきちんと釈尊の教えを実践できていないその所為なのである。
一切衆生のために仏の位を目指していながら、あの人たちは自分たちに親しいものであるとし、あの人たちは自分たちには疎遠な者である、とすることは、すべての衆生に等しく慈悲をもつべきであると説かれている釈尊の教えに反することに他ならない。私たちは猛毒をもち、すぐに咬みつくような恐ろしい毒蛇になり下がるべきではない。般若経に登場する常啼菩薩のように善知識をもとめ、華厳経に登場する善財童子のように菩薩の仏弟子としての在り方を少しずつでも実現していく必要がある。本偈は私たちが仏弟子として日々どうあるべきなのか、衆生に等しく非暴力と慈愛をもちながら無我を理解する智慧を備えた人間として生きるべきなのか、あるいは他者を常に警戒し傷つけ、時には他者への暴力をも容認する毒蛇として生きるべきなのか、というこの選択肢を示してくれているものである。