新任の領主がはじめはやさしくても
後から負担し難い重い税を課してくる
樹の上にいくら雨除けをかぶせても
時間が経つと重たく水滴が滴ってくる
新人の領主や権力者は村の人々にはじめは甘い言葉を巧みに使って、やさしく接していい顔をしてくるものである。しかし良くない領主や権力者は様々な理由を並びたて、自分たちの私利私欲を実現するために、民衆からしてみれば支払うのが困難になる重たい税金を課してくる。これは樹の上にどんなに大きな傘を刺していても、大雨が降り続けていれば、眼には見えない葉と葉のあいだや様々な所から水分を吸収し、外側は濡れていないように見えても、内部は湿気で満ちており、水滴が外側にまで落ちて滴るほど濡れているのと同じことである。このようにいくら外面的な外面を繕っても、内面に問題がある場合には、結局問題は解決できない、ということを本偈は説いている。
仏教文献では、古来、仏教徒のことを「内部の人たち」「内道」という表現で呼称し、仏教以外の外教徒のことを「外部の人たち」「外道」といった表現をする。また論理学や文法学や修辞学や芸術・工芸・医学・薬学・天文学・自然科学などのことを「外明」といい外部に関する学問であるとし、仏教そのもののことは「内明」といい内部に関する学問であるという。これと同時に視覚化できるもの(色)・聴取できるもの(声)・匂えるもの(香)・味わえるもの(味)・触れるもの(触)のことを「外部の色」すなわち外部物質といい、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根といった私たちの身体を構成する物質要素のことを「内部の色」すなわち内部物質という。
このことから分かるように、外部と内部ということの違いは、私たち人間のこの身体の皮膚よりも外側にあるものか、内側にあるものか、ということを主な違いであるということができるし、さらにその身体を構成している内部物質は、身体外に存在している外部物質の寄せ集めでできているので、ひろく物質はすべて外部のものであるということができるし、物質以外の私たち生命体の構成要素である精神、つまり五蘊のうちの色蘊以外の受蘊・想蘊・行蘊・識蘊は内部のものといえる。
このような内外の違いにより、この身体の内側で起こる事象、すなわち精神的なものついての学問は「内明」であるし、ここから外側に出ている物質的な事象に関する学問は「外明」という。「外道・内道」「外教徒・仏教徒」の違いもこれと同じであり、戒律を守って聖職者の服をまとい、さまざまな儀式などをして神々を供養して、私たちの身体の外側にある事象について変化を起こすことで、この身体に閉じ込められている私たちがこの身体とは異なる物質的な事象である身体を得て、天国などにいくことを期待するのが「外道」なのである。これに対して、この身体とは異なる物質的な事象を得るということをやめて、この身体あるいは代替する身体、すなわち他の衆生に転生する場合の身体などとの結節から離れて、物質との強制的な繋縛から自由になった状態を「解脱」と呼び、それを実現するための精神的な営みのことを「内道」というのである。
外部のものは、質量をもつので個体を数量化して数えることが容易であり、だからこそ複数個あるものの物質的特性を比較対象化して、あの人の家は新築でいいが私の家は古くて壊れそうなので私は貧しい、と悲しく思ったりすることができる。物質は、それを享受する精神が享受している時間に反比例しそれを享受する満足度が低下していく「壊苦」のひとつであるので、新しさは価値が高く見えるものであり、古さは価値が低く見えるものである。また内部物質が期待する通りのものを得られるのならば、それを得たことによって快楽が生じ、それを失うことによって苦痛が生じる。たとえば神経を含む身根に影響を与える薬物(外部物質)を摂取することにより、私たちの内部物質に影響を与え通常量よりも多い物質を分泌させ、ある感覚中枢神経を麻痺させることで、内部物質に基づく精神である意識に錯覚を起こすことで、精神を錯乱させてある精神状態を作り出すことも不可能であない。たとえば覚醒剤や向精神薬などはこのようなことを行なっている。これは内部物質である感官知は、それが対象化する外部物質と同時に発生しているが、毎時間次の瞬間に意現量・意知覚というものが起こっており、それを応用したものである。感官知に基づいて起こる次の瞬間の意現量・意知覚は、それに基づいてさまざまな記憶を形成する土台となり、その記憶に基づいて、さまざまな分別知が起こってくるのである。
これに対して内部のものは、外側からは推測によってでしか知ることができない。そして自己の推測が正しいのかどうか、自己が外側へ向かって何か心をはたらかせている時、外側の対象が確実に自分たちに正しい印象を与えているかどうか、ということは論理的な検証をせざるを得ないし、私たちの外側に心が向かう時、特には過剰評価しその対象に執着したり、時には過小評価して、その対象を嫌悪したりしている。これが貪欲や瞋恚と呼ばれるものであり、心に現れている印象通りに、すべてのものが実際に存在していないにも関わらず、自己中心的な印象によって、外側のものが既成事実のように錯覚していることが無明と呼ばれるものであり、そこから心の内側には混乱が起こり、心は迷い悶え苦しんでいくのである。だからこそ私たちは自分たちの視点を心の内側に向け、常に自分の心がどのような状態なのかを監視し、その動きを支配し、よりよい方向へと向けていくこと、これが仏教の基本的な実践方法である、ということになる。
心のなかから煩悩が漏れ出していく時、ある時には執着が起こり、ある時には嫌悪や憎悪が起こる。そのことから何らかの悪き行動や言動が起こっているのであり、自分たちの心を支配して、自分たちの行動や言動を自在に制御できるように修練をつみかさねていくこと、これが善法の修行というものである。釈尊はこのことを説かれるため、この人間世界にいらっしゃったのであり、私たちがこの肉体を捨てるべき時、すなわち死と再生というものを乗り越えることができる、と私たちに教えてくれてきたのである。ダライ・ラマ法王猊下が常日頃説かれているように、仏法僧の三宝にしろ、戒定慧の三学にしろ、菩提心や六波羅蜜にしろ、外側に育むものではないのであって、あくまでもすべてはこれから死にゆく時を生きているこの私たちがどのような心構えでここに在ろうとするのか、というこの問いにほかならない。
本日はこの地上に釈尊が三十三天から宝石でできた階段を降下して、般若経をはじめとする大乗の教えを広大に転じられるきっかとなった日である。遠い天竺からはリンポチェが再び日本にお戻りになられ、釈尊の仏舎利を体内にもつ、未来仏である弥勒如来の御前でこれから法要と伝法が行われる。この数年間の行動制限、そしてそれに続く世界の混乱と戦争やテロリズム、そのような状況のなかでも如来の教法がその輝きを決して失わず、永遠に燦然と輝きつづけていくことを願い、そして私たちの心にあるこの自性清浄心が衆生済度のため、一切相智の境位を得て、無量無辺の衆生たちをやさしい光で包み込んでいくことができるのを祈るのに相応しい吉日である。仏教とは外道ではなく内道であり、仏教の学問とは外明ではなく、内明である。この肉体を発光させることはいま叶わなくても、この心を発光させることはいまからでも自分の力である程度できることである。私たちが等しくもつこの素晴らしい心の灯明を燦然と今日も灯していきたいものである。