民衆の幸福が増大することが
執政者が偉大である証である
大きく拡がる枝葉のすべてが
その樹の根幹を荘厳している
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枝葉が大きく拡がっている樹の下は、心休まる休息の地である。大きく広がる緑のある木陰に座っていれば自然に心は落ち着くし、日常の瑣末な厄介な出来事も大した問題ではないと思えてくる。
釈尊が覚りを開かれた菩提樹の下には、いまも何千年も前から変わらぬ涅槃寂静の境地があり、富める者も、貧しい者も、強く荒々しき者も、弱く傷ついた者も、その永遠の静けさのやさしい幸福を享受することができる。釈尊はブッダガヤの菩提樹の下で覚りを開いて見せられたのであって、煩悩がひしめき合っている大都市の喧騒のなかでもないし、ごつごつした岩影の誰も人がいない洞窟のなかでもない。大きな緑のあるところは、小さな生物も楽しそうにのんびり暮らすことができるし、同じ人間、同じ生命が存在していること自体が、私たちの幸福と静寂をつくりだしてくれる。
もしも根の部分が我執であり煩悩の滋養を吸収して成長してくのならば、木陰は極めて深いで悲惨な場所となるだろう。しかし幸いに釈尊の解かれた教法を根にし、慈悲と一切衆生に対する強い責任感から生まれた菩提心の滋養を吸収して育っている、この仏教という大きく広がる巨木は、いまもまだ枯れてはないし、私たちは安心して暮らすことができる。私たちがいつかこの樹の下で朽ちて行くことがあっても、菩提心の滋養となり、再びこの樹の下で集えるのなら、それ以上のことはないし、それだけで十分ではないだろうか。