善き主人に恵まれるのならば
従者にも国にもゆとりが出る
大きな台木へ接ぎ合わせれば
接穂の先も天空へ届くだろう
接ぎ木をする際には、しっかりとした台木に、接穂となる枝をしっかりと接ぎ合わせる必要がある。それと同じように集団が繁栄してゆき、その構成員のすべての人たちが幸せを感じる余裕が出るためには、善き指導者が必要となる。私たちが求めているのは、決してお互いに憎み合い、競い合い、嫉妬し合い、軋轢と喧騒で落ち着かない喧騒の世界ではなく、心やさしく慈悲深く、道理に則った、節度と調和が取れている、心安らかに穏やかに暮らせる世界である
仏教を実践するためには、まずは正しい善知識に正しく師事して聴聞していかなければならない。何故ならば顕教であれ、密教であれ、すべての実践は聴聞からはじまるからであり、正しい師から聴聞しなければ何をすべきなのか、何をやめるべきかを判断することも出来ないし、自己流で仏教を実践することは不可能であるからである。そしてそのために正しい師の条件を知っている必要がある。
正しい善知識とは、『大乗荘厳経論』に示されるように、戒・定・慧の功徳を有し自らをよく律している人物であり、弟子よりも圧倒的に徳が高い人物であり、勤勉で努力家で、経・律・論の三蔵を正しく聴聞している人物であり、的確な指示や判断をすることで弟子たちを導いてゆくことができ、慈悲深く、決して怠惰ではない人物でなければならない。同時に、弟子の方の条件としても、特定の主義主張に偏った偏見をもっておらず、自分でも物事を判断する冷静な判断能力をもち、努力を怠らず物事を追求したいという意欲をもっている人物でなければならない。このような善知識と弟子がいることがまず前提となり、伝法の際には、双方がまずは仏法に対する敬意をもち、指導者は弟子の問題を解決するための医者であると自覚し、弟子は医師の助言に従う患者であると自覚し、釈尊や如来の代わりに指導してくれる指導者を釈尊や如来の言葉を自分に伝えてくれる釈尊や如来と同様な存在であると思わなければならない。
こうした正しい善知識や弟子や師事作法は、涅槃寂静の境地へと至るための仏教を学ぶために必要な諸条件であるが、同じことは家庭や会社や諸団体などでも全く同じことが言える。正しい善知識と同じようにはできなくても、上司や家長や団体・国家の指導者たる者は、聖人君主ではなくとも、自ら律している必要があるし、他の人々より徳が高くあろうとしていなければならないし、常に勤勉で努力を惜しまない人物であろうとしなくてはならない。また同時に人々を指導するための様々な知識や能力を充分に身につけていなくてはならないし、的確な判断や指示を行い、常に自分の部下や国民や団体の構成員のすべてが幸せになることを思い続けていることが必要である。そして弟子と同じように部下や団体の構成員である人間は、偏見をもたず、冷静で客観的な判断力をもち、困難なことがあろうとも、努力を怠らず、目的を達成したいという意欲をもっていなければならない。家庭であれ、会社であれ、学校であれ、小さな村であれ、国家であれ、そこにいる人が幸せになるための方策そのものに対して敬意を払わなくはならないし、自分たちの立場を自覚し、私心を捨て、公共の福祉を追求して、はじめてその集団は集団を形成する目的である、幸福を追求することができる。
私たちが群れをなして集団を形成して生きるのは、決してその集団のなかでお互いに憎しみ合い、罵り合い、嫉妬し合い不幸を作り出すために生きているわけではない。集団に所属することは、すべての人々の幸せを担保するためであり、その目的で集団となるからこそ、自分の目的もある程度達成できるのである。逆にあくまでも自分だけがその集団から利益を搾取したいという利己的な目的で集団に属しているならば、集団に属する目的に反しているので、その集団からは孤立し、充分な利益を享受できなくなることも当然である、ということになるのである。自分が所属する集団が自分にとって気に入らないのならば、まずは自分たちが変わり、その集団をよくするための努力を惜しまなければよいのであって、社会や集団が悪く自分は悪くない、と考えて、不平不満を述べているのは、ただの我儘であり、弟子や集団の構成員の自覚が足りないだけであると思わなければならないだろう。
釈尊が説かれるようにこの有為のすべては無常であり、私たちは接穂のように様々な台木に拠りながら、そのおかげで成長してゆくことができる。蜜柑やスイカやマンゴーやオリーブなども接木をしていくことでよい収穫を期待できるように、私たちもサンガや集団や国家を形成することで、よりよい生を生きることが期待できるのである。自分たちが他の木を育てなければいけない台木のような立場になる時もあるだろうし、自分たちが育てて貰わないといけない立場になることもある。これらのすべては安心でき、ゆとりのある果物のように甘い、幸福な精神状態であり、誰も孤立しひとり寂しく枯れて朽ちていくことなど望んでいないはずである。本偈は私たちが助け合い、支え合うことで天空にまで届く未来のために、いま私たちが何を思うべきなのか、ということを教えている。