2023.08.06
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

柱で支え合って築いているもの

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第39回
訳・文:野村正次郎

家臣や民衆に敬われてもいないのに

君主が一体どうして統治できるのか

梁を柱でしっかり支えていないのに

王の宮殿がどうして築けるだろうか

39

組織の指導者たる者は、人々から心からの尊敬を得ていなければいけない。何故ならば、人々が組織を構成しているからであり、人々から支えられていなければ、組織を運営するのが困難になるからである。たとえば柱で天井の梁を支えていなければ、天井や梁が落ちてきて、壁も倒れてしまう。何階建もの構造物を支えているのは柱であり、どんなに上に乗っていても、下から支えてくれるものを大切にしていなければ、上にあるものは落ちてくるし、ばらばらに倒壊して周りにも迷惑がかかってしまうものである。本偈はそんな当たり前のことを述べているだけであるが、この当たり前のことを私たちはなかなか実践できていないのが問題なのである。

本偈のように君主と家臣や民衆といった昔の君主制の社会での当たり前の原則を説いているが、いまの日本のような世の中では、主権をもっているのは、実は国民である。国民が尊敬されていなければ、官僚や政治家は当然のように不正を行うであろうし、国民が指導者であるのに指導者としての責任を果たそうとしなければ、国民は軽んじられるので、その結果国家もうまく運営できなくなる。いまは滅私奉公がよしとされる封建時代ではないので、権力をもっている私たち自身が主権者であるということを自覚せずに、不平不満ばかり述べ既得権などに基づいて私利私欲を肥やすことばかりをよい社会を私たちは作っていくことはできないのである。すくなくとも日本に住んでいる独裁制や君主専制の時代に生きている訳ではなく、民主制の時代に生きているので、社会を導いているのは自分たちであるという責任感をひとりひとりの主権者がもっていることが重要となるだろう。本偈の権力をもつ主権者と統治される側の構造は、日本のような国家であれば、このように逆転させて考えることができるだろう。

大乗仏教を実践する者であれば、私たちはすべての衆生たちを苦しみから逃れさせたいと思い、その思いを完遂させるために仏の境地を求めて生きている。この場合にも指導者が私たちであるとするならば、他の一切衆生から自分たちが敬われるような存在にならなければならない。暴力で他の衆生たちを思い通りに操ることはできないし、自分たちが他者である他の衆生に支えられてはじめてこの世界でより大きな幸福を得ることができる、ということを理解していることは非常に大切なことであろう。たとえば施しをする時にでも、恵まれない、立場の弱い人たちにも敬意をもって接しなければならない、と布施の心得では教えられているが、どんな格好をしている衆生であるとも、私たちはそれを馬鹿にして軽んじるべきではない。この衆生は自分より上だ、あの衆生は自分たちよりも下である、ということばかり考えていては、永遠に六道輪廻の三界世間はすべて等しく苦しみしかないのでここから解脱したい、という気持ちにはなれないだろうし、菩提心を起こして仏の境地を目指すことなど夢のまた夢になるだろう。

日本には「お互い様」という言葉があるが、お互いに敬い合い、気を遣い合い、助け合うことができることが良いことは誰でもわかっているだろう。他者によくしてもらえば私たちは嬉しいのと同じように、私たちも他者を敬い、気を配り、いつでも助けになれるような存在であろうとすることからすべてははじまるのだろう。

美しい王宮は、美しい柱でしっかりと支えられており、そんな柱で支えられているものもまたきっと素晴らしく、その社会は素晴らしい社会であったことは想像するのに難くはない。お互いに支え合い平和で協調のとれた美しい地球の未来を築くために、私たちは生きている。この小さな惑星で主導権をとっている私たち人類が望んでいるのは、地球の崩壊ではないのこそ、我々人類がどうあるべきなのか、ということのその答えは明白ではないだろうか。

ゴマン学堂の旧問答法苑の柱と梁

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