枯れた樹も水分を取り戻すなら
瑠璃色の色彩を放つようになる
凡庸な顕現も光明で磨くのなら
清浄な本尊の御影で出現できる
チベットの僧院に入った若い僧侶たちがはじめに教えられることに「私と同様な存在である人を人が判断すべきではない。それは破滅へと向かってしまうからである」という経典の言葉がある。これはすべての人、そしてすべての衆生を一切相智の境位を実現した如来と同じような存在であると考えなければならないのであって、私たちの通常の判断で他人のことを判断してはいけない、ということを教えるものである。
我々の通常の認識には現れてくることが出来ないものは、認知不可能なものであり、認知不可能なものが、ある特定の対象にある特定の状態には存在しないことは、たとえば夜には太陽が見えないので、「夜空には、太陽は存在しない」とする言明は、自分が知の対象としている空に限定すれば正しいが、太陽自体の存在はいま見えないだけであり、一般的に「太陽は存在しない」と命題自体は正しくない命題である。同様に「田中くんは悪い人である」という論理的には誤った命題である。何故ならば、自分たちには田中くんは悪党にしか思えないかもしれないが、我々の知らないところで田中くんは、野良猫を可愛がって餌をあげたり、野良猫が怪我をして血を流していれば、野良猫をつかまえて消毒薬をかけてあげたりしているからである。野良猫から見れば田中くんは生命の恩人であり、「田中くんは良い人である」ということになる。どんな人間にも何か良い性質というものは必ず存在しているのであり、我々が認識しているある対象が人間やある時間やある場所で、何らかの特質が顕著に現れて存在しているからといって、その対象の特性を無限定に限定的な特性で表現することは、論理的に正しくないのである。
「私と同様な存在である人を人が判断すべきではない。それは破滅へと向かってしまうからである」という経典の言葉は、手癖の悪く友達のものを盗む小僧や、勉強ができずいつも法要のたびにずる休みをし、先生のいうことをちゃんと聞けない小僧のことを「あの子はだめだ」「あの子は猿よりもバカだ」「あの子は泥棒だ」「あの子は嘘つきだ」などと断罪してしまえば、その断罪している人間その自体が誤った命題を捉えていることによって、破滅へと向かってしまっている、ということを教えているものである。
自分から見て気に入らない人がいようとも、その相手がどんなに酷い悪行を働いていても、そのように我々に見えることと、私たちがそのような者であると見下すこととは明確に異なっている。我々の凡庸な通常な認識には限界があり、その限界がある認識に基づいた情報によって、菩薩や如来の化身であるかも知れない、他者を決して見下してはいけないし、誹謗中傷してはいけない、という利他主義に基づいた絶対的な倫理観を形成するための基盤となる考え方である。また一切衆生を自分にとって大恩のある善知識である、意識することは、菩提道次第の最初の善知識への正しい師事作法の基本であり、死後のことを意識して、三宝に帰依する以前にそのような意識を起こさなければならないことをジェ・ツォンカパは『菩提道次第広論』の冒頭でも述べているのである。
秘密真言乗のうちの無上瑜伽怛特羅では、我々が通常死んでいく過程、死後中有の身体を成就していく過程、転生先の新しい身体へと結生相続して、生まれてくるまでの過程を、如来の法身・報身・応身の三身が成就する過程へと転化させる生起次第の修行法が説かれている。この最初の過程で、我々が死んでいく過程の最後に現れる死の光明を、空性を現観している勝義の光明へと昇華させて、両者を一体のものとするための修行法が説かれている。
本偈はこの過程を、枯れて死んでいく樹木が十分に栄養素をもっている別の樹木を継木して、合体させることで、枯れてしまいそうな樹が再び瑠璃のような青い輝きを取り戻すように、通常は死んでゆき死有の最期の段階で現れる死の光明が顕現した後に、次に再生する身体と対応する中有の身体を実現する現象が起こる代わりに、死の光明を勝義光明と一体化させることで、その次の瞬間から最も微細な精神と気体(風元素)のみでできた清浄なる幻身を実現し、この幻身を所依として、三十二相八十種好をすべて具足した本尊として生起することができるようになる、と説くものである。
密教においては「凡庸な顕現」を排するということは極めて重要なことであり、師たる金剛阿闍梨と本尊を一体であると信解し、伝法の道場も本尊と諸衆の曼荼であると信解できなければ、阿闍梨が引導する曼荼羅のなかに迎えいれてもらうことなど出来ないし、密教の修行を行うための灌頂を授かることもできない。師たる金剛阿闍梨は本尊と一体であるからこそ、その誓約は絶対的に死守しなければならないのであり、本尊との取り決めごとであることも忘れてしまい、また師僧との約束事を履行する気もないのならば、本尊の名号を唱え、真言を唱えようとも効果が期待できないのである。
師と本尊を一体であると信解しなければならないことは、密教に限らず、顕教においても非常に重要であり、正しく善知識への師事の基本である。正しく善知識に師事するために、自分に正法を示してくれる善知識を如来と等しい存在である、と感じていなければならないのであり、それが出来なければ、不敬罪にあたり、その結果、弟子としての資質の欠陥となり、いくら聴聞をしようとも、いくら仏典を読もうとも、その教えが私たちの弟子の精神の発展のための滋養となることはない。
顕教においても、この無辺無窮の空間には、如来たちが満ちていることを明確に意識しなければならないのであり、「人間ブッダも死んだ」などと発言するのは実に愚かであり、そのような考えをもつこと自体が、慎むべきことにほかならない。私たち衆生がいる限り、如来のいない場所は何処にもいないのであり、如来の慈悲は無窮であり、その利他の活動は無窮であるからこそ、道を歩いて話しかけてくるような不審者であれ、我々に物乞いをしてくる人であれ、時には我々を恐ろしい武器で殺害してくる人であれ、すべての衆生を如来そのものである、と考え、この世界は煩悩のひしめく恐ろしい世界であると輪廻を厭う気持ちと同時に、我々は常に如来の無限の慈悲の眼差しの降り注ぐ対象でもあり、この世界は如来たちが救済しようとする所化の仏国土であることを感じられるようにならなければならないのである。如来や菩薩の化身は、人間の姿をとって現れることもあるし、盗賊や殺人鬼の姿で現れることもあるし、椅子や机や橋や道の姿をとって現れることもある。しかしいくらそのような姿で現れていても、私たちの精神力に欠陥があることによって、そのような姿として我々の心に映らないだけである、ということを論理的に理解しておくことは極めて重要なのである。
こうした我々の通常の凡庸な意識に現れてくる現象に振り回されず、常に如来や菩薩たちの眼差しが我々を守っているという感覚は、すべての仏教徒に共通する重要な感覚である。
如来たちの御影で我々凡夫が生起するのは、密教の修行法の基本の本尊瑜伽であるが、如来たちの御影がいまここに如何なる時も出現していることを感じられる感覚を培うことは、密教に限らず、大乗仏教に限らず、すべての仏教徒が基本として身につけていかなければならない感覚である。
如来の姿は我々の肉眼では見えなくとも、私たちの心の眼で感じることはできる。如来の説法は、沈黙の森のなかに反響する風の音に聴くことができる。残念なことに唯物論的な考えしか持てず、わずかばかりの目先のこと、今生だけのことしか考えなければ、不安や煩悶や絶望を超克できないかもしれない。しかし私たち人間の精神がもつ無限の可能性に思いを寄せ、この素晴らしき世界の素晴らしさを感じられることが多くなれば、必ずやこの世界はもっとお互いに慈しみ合い、愛し合える、美しく開かれた世界となることだけは確かであろう。すくなくともダライ・ラマ法王猊下やさまざまな菩薩たちは、私たちが幸せであり苦しまないように日夜祈ってくれている。後は私たちがその願いや祈りを感じ、清浄な光明から出現した利他の心に満ちた曼荼羅世界を望むのか、この凡庸で自己中心的ないまの認識を増長してゆき、互いに殺し合い、互いに傷つけあうとも死ぬことさえも出来ない煩悩の結実である無間地獄を望むのか、その選択をするだけなのである。